は癇癪を起して僕の頭へ指を突き込む、お前はそれを掻き廻して、イヤといふ程僕を畳へ転がせてしまふ。それでも僕の長い泳ぎは、失はれた藻屑のやうにいつ止むものとも思はれない、僕は深深《ふかぶか》とした渦巻に酔ひ痴れながら、陥没する木屑のやうに、古い疲れで二つの眼瞼を閉ぢてしまふ。
「陰気坊主! お化け! 間抜け! 弱虫! 意地わる! 気狂ひ! トマト!」
 日本語の語彙《ボキャブラリイ》は、お前を一晩喋らせておく程豊富には作られてゐない、お前は癇癪で目を泣き腫らし、お前自身が分らなくなる、お前は咄嗟に稚児《おさなご》の心を決めて、爆弾のやうに僕の脾腹へ倒れて落ちる。お前はニヤニヤ笑ひながら、僕と平行に腹這ひに寝てすばやく僕の目の中へお前の笑顔を捩込んでしまふ。
「痛かつて?」
「痛くないこともなかつた」
「近頃健康はいいの……?」
「さう、悪くないこともないが……」
「今日も一日退屈して?……退屈しないこともなかつたのね。ねえ、あたし今日、いろんな事を考へたの……」
 そしてお前はニヤニヤしながら、「いろんな事」を思ひ出せずに探しあぐねて、時々そのまま寝込んでしまふ。僕の近頃は放心が深い、それからの永い夜、僕はお前の寝姿にさへ心付かずに、うつらうつらと物を思ふ、ときどき太く逞しく息を吸ひつつ……。ふとした夜の気配がして、僕は程経てお前の寝顔を発見する、僕は暫く呆然として、不思議に白々と広く虚しい部屋の隅々を見廻しはじめ、やうやく僕の存在と場所と時間に気付き乍ら今しがたお前の探しあぐねてゐた「いろんな事」を思ひ出す、何か不思議な拡がりを持つ胸の痛みと全く一緒に……。
 斯《こ》んな気まぐれな、だらけ切つた生活が、たとへば永劫に続くとしても、悔む心の萌すときは僕にあるまいと考へてゐた、僕の涯無い無気力は、すべて現実に順応することをのみ生き甲斐として、悩みを悩みとも思ふ時はあるまいとその頃僕は考へてゐた。だが、僕達の知らない場所に僕達の心があつて、その日頃ひそやかに成育を遂げ、もはや隠し切れないその決意を或日僕達に顕はした時、僕達は始めて実に驚愕した。――その話を僕は静かに物語りたい……

[#7字下げ]2[#「2」は中見出し]

 同じ悪夢が、夜毎《よごと》、氾濫した溝《どぶ》のやうに枕の下を流れて通る。酷い日は白つぽいドロドロの夜を、同じ悪夢で二度に三度に区切られてしまふ。
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