―」
「大丈夫だ、大丈夫だ、俺はシッカリしてゐるのだ」
「何が大丈夫なもんか! キミも男なら、恥を知るものよ」
「ウン……俺は大丈夫なんだ――」
 駅の屋根を出切るとき、鮎子は僕を置き去るやうに、激しく息を呑みながら、スタスタと雨脚の中へ駈け込んで行つた。僕は雨具の用意を持たない、僕はドシャ降りの煙を浴びて、鮎子の背筋を噛むやうに追ふた。
 コイツ……僕は鮎子の襟頸を抑へ、劇しく顔を引き戻して、その顔イッパイに睨みつけてやりたいと思つた。僕は劇しく、イライラしながら、それでも怒りを圧し潰して、頬に伝ふ雨の滴《しずく》を甜めながら、酔ひ痴れたやうにダラシなく泥濘を歩いてゐた。暫くして鮎子は突然ふりむいた。
「キチガヒ!」
「バカ!」
 お前はまるで皺だらけな、力の脱け切つた顔貌《かおつき》をして笑つた。その皺に、みんな一条《ひとすじ》、何か冷い液体が滲み出るやうな顔貌《かおつき》をしながら……。そしてお前は手を高々と延しながら、やうやくお前に追ひついた僕の体躯を覆ふやうにして、僕を傘に入れて呉れた。
「どうしたの?……近頃変よ、ネ、シッカリして……」
「俺は大丈夫なのだ……」
 僕は長くボンヤリして、表情の死んだ顔貌《かおつき》をしてゐた。

 それから、太陽のある夏が来た。

[#7字下げ]5[#「5」は中見出し]

 その頃から、こと毎に、お前は僕を憎んだり、軽蔑したりしはじめた。それは時々、徒事《ただごと》でなかつた。
 僕への深い尊敬の、逆な表現ではあるまいか、僕は時々さう考へた。それは有り得ることだつた、少くとも、お前は僕を怖れはじめてゐた。ヒョッとして――死にたがるのは、むしろお前ではなかつたのか、僕は時々さうも思つた。
 僕はことさら肩を張り、傲然と高く杖を振り振り街を歩いた。お前は空を裂くやうに、鋭く街を渡つてゆく、時々お前の顔貌《かおつき》は金属性の狐のやうに、硬く冷く尖つて見えた。お前の肩に切られた風が、不思議に綺麗な切断面を迸しらせて、多彩な色と匂ひとで僕の首《うなじ》を包んでしまふ、僕はときたま噎せながら、不思議にそれを綺麗だと思つた。

 ――尊敬は恋愛の畢りなり。
 この不思議な逆説を、間もなく僕達は経験した。



底本:「坂口安吾全集 01」筑摩書房
   1999(平成11)年5月20日初版第1刷発行
底本の親本:「文藝春秋 第九年第
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