した海の遠さが薄く一杯。二人は下の波を見る、波を伝ひに、だんだん遠い沖へ目をやる。船は港を出やうとして、やるせない程遅鈍な緩さに半廻転を試みてゐた。岩壁から長々と沖へ彎曲した太い航跡《ウエーキ》に泡も消えて、流されてゆく波紋の頭《かしら》に時々白い空が揺れた、小さな船が、広い航跡を横切つてゆく。
「アアア、あたし何処かへ飛んで行きたい、知らない国へ、ひとりぽつちで旅をしたいわ……」
「僕も何処かへ飛んできたいや……」
 僕の大きな体躯から、自棄な溜息が漏れて落ちさう。僕はガックリ蒼空を見る、その瞬間をお前はまるで予期したやうにその時険しく僕を睨む、それも一瞬《ひととき》、お前は素早く瞳を逸らし、鈍く耀やく石畳へ棄て去るやうに其れを落す、お前は息を呑みながら小さく肩を聳やかし、劇しい軽蔑を強調しながら、ふと立ち上つて歩きはじめる。
「あたし何処かへ行きたいの……」
 お前は再び小さな声で、同じ言葉を呟き直す、恰も僕の良心へその呟きを押しつけるやうに。そしてお前は急ぎはじめる、急ぐうちに僕のみ一人侘しく遠い岩壁に小《ち》さく残して、お前は白い石畳をだんだん早い速力で、ただ一条《ひとすじ》に駈けぬけて行く。
「お待ち……」
 僕は危ふく言ひかけて、ハズミで息をゴクンと呑んだ、お前は其処にもう居ない、お前は小さく凋んでゆく、僕は暫く眺めてゐるが、やがて其処から目を逸らし、海を見て又空を見て、ながながと、欠伸をしたい気持になるのだ。しかし僕も立ち上る、疲れた体躯を一振りして、黙々と顔を伏せながら、お前の後を走りはじめる。僕は窶《やつ》れた豚のやう、皮膚の中では僕の体躯が、何か重たい荷物のやうに、無器用な音《ね》をゴトゴト立てて右と左に揺れてゐる、その震動を僕は数へ、時々海を偸み見ながら、長い岩壁をポクポクと駈けてゆく。

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 永い雨の二週間、僕の奇妙な緊張は、不思議な速力で育ち初めてゐた。霖雨《ながあめ》のうちに、六月が過ぎて、やはり煙つた七月が来た。すると僕は、もはや六月の僕でなかつた。一日のうちに一日の推移を、二つの瞬間《とき》に二つの段階を、僕は明らかに感じ分けることが出来た、もうやがて破裂が近い……それはもう僕にとつては概念でない、今明確な感覚に耳を澄ませば、弛《たゆ》みなく震幅を増す跫音《あしおと》に、僕の胎内から聴きとれてし
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