がゆるむから」
彼はせせら笑って、
「これから君を烏賊虎《いかとら》さんのお宅へ案内するが、烏賊虎さんは君をもてなすために酒肴の用意をととのえて待っておられる。伊東市は温泉町ではあるが、半分は漁師町だ。烏賊虎さんは南海の名もない漁師だが、最も深く赤城風雨先生の高徳をしたう点に於て、第一級の人間なんだね。戦争中は赤城先生の病院で人手が足りなくて、手伝いに行って、ズッと臨終の瞬間も見とゞけた最も親しい人だ。三四日君を泊めてくれる筈だから、新鮮な魚をウントコサ食べさせてもらって、赤城風雨先生の話をきくがいいや。君の考えはガラリと変るぜ」
「拙者は烏賊虎さんのところへ泊まるのかね」
「あたりまえさ。君の曲った根性をたたきなおすには、そこへ泊めてもらうに限る」
こんなわけで、私は魚市場から段丘を登ったところにある烏賊虎さんの二階に五日間泊めてもらった。私は、できるなら、五年間でも泊りたいと思ったほどである。
漁師というものは、実にあたたかくて、親切なものだ。オ早ヨオ、だの、コンバンワ、などゝ月並な挨拶は全然やらない。ほかに気の利いた代用品を用いているわけではない。つまり、ゼンゼン喋らないのである。どんな親しい間柄でも、黙って往来をすれちがう。頭も下げない。彼らは魚に同化して、ムダなことは喋らなくなっているらしい。魚が挨拶したら、おかしなものだ。鯛のような人もいるし、ヒラメのようなジイサンもいる。アンコーにそっくりのオッサンもいるし、イワシのような娘もいる。ヒラメ族というものが、すべて一律にただヒラメであって、太郎ヒラメでも花子ヒラメでもないように、彼らにとって、人間族は一律にただ人間であって、その絶対の信頼感と同族感が漁師町に溢れているのである。
そして漁師は魚よりも、かしこくて、おだやかである。私は伊東市の半分、温泉町ではよその土地からまぎれこんだ地廻りたちがケンカするのを見たが、あとの半分の漁師町では永久にケンカがないことを知った。若い漁師のたくましい筋骨はあげて風浪との闘いに捧げられ、同族に向って手をあげるなぞは思いもよらないことなのだ。平和な、そして、あたたかい町。
朝の三時には、もうホラガイが暗い海面をなりわたる。百人あまりの若い人たちが各々の家からとびだしてくる。彼らをのせた十ほどの小舟が親船にひかれて、走り去る。なんの怒号もなければ、劇的な動作もない。
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