ヤ、絶対に大丈夫ですよ。肝臓以外にはどこにも悪いところがありません」
 そこで主人は女中をつれて立ち去った。
 これが事件のはじまりだ。
 主人と女中の報告をきいて、全従業員は結束して、隔離反対を陳情した。赤城先生がシサイに全身検査をして、チブスの疑いなしと診断したのだから、隔離をうけるイワレはない。これが従業員の言い分だ。
 けれども軍医がチブスと診断して隔離を命じたのだから、そんな陳情は通らない。一同は隔離されたが、赤城先生がシサイに診察してチブスでないというものを、隔離室にいられるものかと、一同は勝手にぬけだして、毎日町へ遊びにでゝしもう。カンカンに怒ったのは軍部である。
 軍の命令に服従せず、威信を傷けた憎ッくき奴。その元兇こそは赤城風雨という亡国の肝臓医者だ。ただではおかぬ。見ておれ。
 そこで全従業員の便をとり、毎日毎日、風雨ニマケズ、これを執拗に東京の軍医学校へ送る。軍の威信にかけても、どうしても従業員の便の中からチフス菌を出そうというのだ。
 赤城先生は毎日毎日全従業員が検便されていることを知ったが、自分に対する報復の一念からだとは気がつかない。軍医たちの研究熱心がさせる業と思い、それほど研究熱心なら、モッケの幸い、ともに手をとりあって肝臓炎の正体をきわめたいと思った。
 そこで一日、軍の治療所を訪れて、軍医部長に会い、
「毎日全従業員の検便しておられるそうですが、御熱心な研究態度には、まったく敬服いたしております。医者がみなそのようであれば、病人はどんなに幸福でありましょうか。また一国の健全な発達も、それによって、どれぐらいソクシンされるか分りません。しかし私の診断しましたところでは、便から病菌はでないように思われます。けれども彼らが、たしかに伝染病であることは疑いのない事実で、私はこれを流行性肝臓炎と名づけております。それは流行性感冒に随伴して起る肝臓炎で、肥大と圧痛をともない、伝染力をもっていますが、その病源菌はまだ分っておりません。私は昭和十二年末から、この特異な肝臓疾患に気がつきましたが」
 と、今までの研究をくわしく打ちあけて物語り、
「軍の全盛時代に当って、軍医の方々がかくも仕事に良心的で研究御熱心の態度を拝見して、感激の極に達するとともに、かくも御熱心な皆様方の御協力を得ることができれば、流行性肝臓炎の正体を解明することもできようと、
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