めたために、精気が陰にこもって内から発するに至ったのかも知れない。七十にして十七八のチゴサンへの若返り。ああ、奇蹟なるかな、奇蹟なるかな。
「剣できたえたこの身体はヒロポンなぞうたなくッてもミズミズしく若返るのだ。女学生に惚れられるのも悪くはないな。その体力には自信があるなア」
ちかごろは鏡を見るのがタノシミだ。ためつすがめつ鏡を見たくて仕様がなかった。どこがどうということもないが、どこを見ても満足であった。自分自身のあらゆる部分が一切合財、鏡で再認識することによって、ただもう満足で仕様がない。しかるに旅館開業どころか、この邸内から追んだされるかも知れないというから、玄斎が神蔭流の奥儀に反して驚倒したのは仕方がなかった。ミズミズしい老体もムザンに打ちしおれて、
「実に狂六先生とも思われぬ重大なる失言でしたなア。しかし、狂六先生は新時代を深く理解せられ、また新時代の方も狂六先生を理解している如くでありまするから、どうぞ、先生、お助け下さい」
「ハ? お助けするんですか、ワタシが? 変なことを云うなア、剣術の先生は。アナタちかごろ、ちょッと変じゃないですか。奥さんが云ってましたぜ。日に二三十ぺん鏡を見ているそうじゃないですか」
「イエ、それは武道の極意です」
「ハア、鏡を見るのが、ねえ」
「諸神社の御神体も概ね御神鏡が多いものですが、鏡も玉も剣も一体のものです。これが武術の極意でして、ワタクシが老来若返りまするのも、即ちこの三位一体によって……」
「ハハア。さては、先生。オレが十七八のチゴサンのような色気がでてきたと云ったからそれで妄想に憑かれたね……」
「とんでもない」
「アレ。あかくなったじゃないか。論より証拠だ。ヘヘエ。ぬけぬけと三位一体を論じたね。アナタも思ったより口が達者じゃないか」
「いえ、もう、時代に捨てられまして、寄るべなき身の上です。なにとぞ、先生、お助け下さい」
「なるほど、なア。さすがに武芸の極意にかなって、変転自在、かつ、また、神妙な口ぶりではないですか。アナタは剣のかたわら骨董のブローカーなぞもやり、昔は蓄財も名人、女を口説くのも名人という人の話をきいたことがあったが、さては実談だな」
「とんでもない」
「実は、ねえ。先生。その先生の神妙な話術を見こんで、お願いがあるんですが、なんしろオレは喋りだすと軽率でねえ。特に美人の前ではロレツがまわらんです。実はねえ、ボクは三四年前から陰毛で毛筆をつくることを考えて、旅先なんかで旅館の部屋のゴミを集めてもらって、陰毛を探しだして毛筆をつくってみたです。非常に、いいですね。イヤ、これはね。まだ生えてる陰毛をぬいて造っちゃいかんです。自然に抜け落ちたような毛が頃合なんですね。そこで、ボクの一生の念願と致しまして、崇拝する美女の陰毛をあつめて、一本の筆をつくりたいのですが、そういう失礼なことをボクの口から花子夫人に云うわけにいかないので――いえ、ボクはね。軽率だから、本当のことをつい口走る怖れがあるです。花子夫人の居間と寝室のゴミを毎朝晩集めて恵んでいただくように頼んでくれませんかねえ」
「今にも追放の危機に際して、そのようなことが願えますか」
「ウーン。そうか」
「しかし、その楽天的なところが、狂六先生の値打ですな。我々の思想はもう古いです。先生のその新思想をもって、なにとぞこの危機を打開していただきたく存じます」
さすがに神蔭流の達人は緩急を心得ており、並木先生のように、狂六の失言に面と向って難詰するような至らぬところがない。結局、神蔭流の極意によって、狂六はジリジリと追いつめられ、危機打開のために、イヤでも彼が孤軍フントウ立向わねばならないようになってしまった。そこで狂六は光一に手引きしてもらって、ひそかに花子夫人と会談して、
「つまり、一服もるというのも一刀両断に致すというのも、ボクの失言でして、本人がそんなことを云ったわけじゃないです」
「だけどさア。要するに、彼らの心にあることを、アナタが云い当てたんじゃないかなア。ボクにだって、その実感がビリッときたですからね」
「よせよオ。キミが横から口をだしちゃいかんじゃないか。キミは退席しろよ」
「オブザーバアですよ。それに貞淑な良家のマダムと対座するのがアナタ一人というのは今日のこの混乱せる時代を背景とし、またこの変テコな雑居族を背景として、良識ある者は放置できないです」
「変なことを云うない。シリメツレツなのはキミじゃないか」
「ねえ、ママサン。この人はね。パンパン宿なんかの部屋に落ちた陰毛を拾いあつめて毛筆をつくってるんですよ。それでママサンの居間と寝室のゴミを毎日朝晩ボクに掃き集めてくれッて云うんですけど……」
「よせよ。ボクは旅先の旅館なんかの、と云ったんだ。パンパン宿なんて云いやしないよ。失礼じゃないか」
「アナタ、パンパン宿以外に泊ったことないでしょう。たとえば熱海。アナタ、どこへ泊った? 糸川しか知らないでしょう」
「よせッたら。キミは黙秘権というのを、やれよ」
「この際アベコベでしょう。アナタがそれをやるんですよ」
「うるせえなア。なんのために来たんだか、分らなくなッたじゃないか。実は、その、並木先生の問題ですが、先生が一服もるなんてとんでもないです。そもそも医者は毒薬に通じておりますから、毒殺すれば必ずバレることを知っております。ですから、毒殺は素人が用いる手口でして、ボクは探偵小説をよんでおりますから――もっとも、医者が毒殺の手口を用いた例も二三ありますけど――そういえば、かなり、あったかな。音読んだのは忘れちゃった。奥さんも探偵小説の愛読者だから、ごまかせねえかな」
「私が並木先生をおことわり致しましたのは先生のお見立がオヘタでいらッしゃるからですよ。いかに探偵小説を愛読いたしましても、まさか先生が一服おもりになるなんて考えやしませんわ」
「じゃア、ケンギ晴れたんですか」
「狂六先生、シッカリしてよ。ボクまで恥ずかしくなッちゃうよ」
「そうか。見立てがオヘタだから、と。つまり、そうか。これは、決定的だな」
「そうですよ。まさに、文句ないです」
「ウーム。アイツはヤブだからな。どうして当家の先代はあの先生に学資をだしたんでしょうね。ムダなことをしたもんだなア」
「アナタの一刀彫の手並も似たもんじゃないですか。ムダなことをしてるなアと誰かがきっと云ってますよ」
「よせよ。キミはうるさいなア。全然オレはキミと会話してるじゃないか。キミと会話するんだったら、こんな無理しなくとも、いつでも、できるじゃないか。今日は全然ダメだ。奥サン失礼いたしました」と狂六は苦心のカイもなく、退却せざるを得なかったのである。
殺人事件の巻
ところが、一月ばかり床についたのち、一作氏はなんとなく死んでしまったのである。
「どうも、変ですなア。主治医として、まったく面目ありませんが、病因がハッキリ致しません。はじめは高血圧のせいで、他にさしたることはないように考えとったのですが……」
と並木先生の代りに選ばれて診察に当った太田先生が葬式がすんだ後になって、光一にもらしたのである。
「すると、他殺だという意味ですか」
「イエ。そうじゃないです。ともかく、解剖して病因をたしかめるべきだったかも知れないというだけです」と、太田先生はごまかしたが――ごまかしたわけでもないが、光一がネチネチと追求すると、結局ごまかしたような結論になってしまうのである。
「ねえ、先生、なにか特殊な毒薬を用いた場合に、専門のお医者が見ても、外部からでは毒殺かどうか見分けがつかないような薬品といったらどんなものがあるでしょうか」
「そんな小むずかしい薬品を使って毒殺するなんて例は、日本に於ては考えられませんよ」
「なぜですか。戦争に負けた国は、毒薬の使い方もできないものですかねえ」
「一般に、素人がそれを使いこなす生活や知識の基礎がないですからね」
「秘密に勉強できないのですか。たとえばですね。日本人は読み書きの教育が普及していることは世界一だと云われてますが、そういう毒殺の方法が文字に書かれて公表されているとすれば、それでもやはり、日本人は毒薬を使いこなす生活の基礎がないと云えるでしょうか」
「そんな毒薬は一般に入手困難ですよ」
「殺人のためには犯人は必ずや相当の無理はするでしょうね」
「とにかく殺人じゃないです」
「なぜですか」
「今となっては手おくれですよ。解剖しなかったんですから」
というような結論であった。
この会話を交した人物が光一であるから、この会話がたちまち世間へひろがったのは当り前だ。といって、別段警察が動きはじめたわけではないが、前山家の邸内の住人たちがそれぞれ人を疑って大変なのであった。
「やっぱり、やったか。いかにヤブでも、医者には相違ないからな。してみると、生かす薬にくらべると、殺す薬は調合がカンタンらしいな」
狂六はこう考えた。云うまでもなく、多くの疑惑は主として並木先生にそそがれていたのである。
「患者がメッキリ減ってからの先生の目ツキは凄味があるよ。気がちがったんじゃないかなア」
というような観察が行われていた。
ところが並木先生は世間の噂にはおかまいなく、さて、犯人は誰であるか、長男の光一が一番怪しいが、玄斎も狂六もタダモノではないから、どういう奇怪な行動をやるにしてもフシギはない。こう考えて先生は万人を疑ったが、しかも奇妙なことに、彼は医者でありながら、何者が「いかなる薬品をいかに用いて殺したか」ということを考えずに、何者が「いかなる心理によってこの犯罪を犯したか」という心理探究の方にもっぱら熱をあげていたのである。
そこで狂六が並木先生に云った。
「おかしいねえ。アナタ、医者だろう。そのくせ、なぜ、誰がいかなる薬品で殺したかということを考えないのかね。アナタ、つまりそれを考えたくないのだなア、そこで心理問題の方へはぐらして、ごまかしてるんだね。つまりさ、アナタが殺したからだろう」
こう云われても、並木先生は、誰か他の人がそう云われた如くに全然平然として、いつも傍観者のような顔をして安らかな笑いをうかべていた。
「オレにだけ白状したまえよ。気が軽くなるよ。ボクはね。一作氏を殺した人に敬意を払うとかねて神仏に約束してるのだから」
「この犯人は非常に性慾が強い人だね。アナタも性慾が強いが、玄斎先生が七十の老人ながら、まだまだあの方は四十三十の壮年の如くですね」
「この人は医者の学校で何を勉強したんだろうね。いかにごまかすためでも、医者は医者らしくごまかせないものかねえ」
「ここに一ツの例がありますが、玄斎先生はこう考えたのだね。婦女子を喜ばせるためには、口説くのが何よりである、という考えです。これは老人が人生を達観した後に会得する考えの一ツでして、苦労人の見解です。そこで玄斎先生は花子夫人に言い寄りましたが、花子夫人が風に吹かれる柳の枝のようにうけ流しておったから、風に吹かれて、微風にですな、ソヨソヨと、柳の枝がゆれる。いい風情ですな」
「何を言うとるですか、このオヤジは。どうも、頭の方へきているらしいな。しかし、玄斎先生が口説いたというのは初耳だね。あのジイサンがねえ。しかし、たしかに、ちかごろ、めっぽう色ッぽいよ、口説きかねないねえ。緩急自在、ジリジリと、剣の極意によって、神妙だからねえ」
「しかし、玄斎先生のほかにもう一人、花子夫人に云い寄った初老の人がある。芸術家だね。彫刻をやっておる。しかし、気をせかせるばかりで、言説に風情がない」
「アレエ! アンタ、知ってたのか。おどろいた。誰から、きいたね」
「とにかく、性慾の問題です。性慾の強い人が、女に言い寄りもすれば、結局、人を殺すようなことになります」
「よせやい。ろくに女も口説けないような陰にこもった人物が一服もるのだよ」
そうこうしているうちに、花子夫人が行方をくらましてしまった。恋人ができて、東京で新世帯をもったらしい。
行方をくらます前に、道具屋をよんで、相当数の金目の物を売り払った。前山家は財産家であ
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