焼失し、また他の別荘や土地の多くは財産税で人手に渡って今ではこの別荘が残っているだけであるが、おかげをもって、玄斎狂六の二先生は殆ど収入もないくせに、この暮しにくい乱世をなんとなく今日まで生きぬくことができたのである。こういう事情であるから、並木先生の立入禁止が変に発展した場合には、彼らの唯一の安住の地を失う怖れがあったのである。
ひょッとすると、この邸内から追放されるかも知れんということを知って最もショックをうけたのは神蔭流の玄斎先生であった。
御承知の如くに、敗戦後は剣術が禁止されて、神蔭流が一文にもならないばかりか、玄斎その人が民主々義の怨敵の如くに、子供も女房も先生をバカにするのである。
狂六が旅館の共同経営を提唱し、玄斎の堂々たる風采が雇われマスターとして天下一品だと叫んだ時には、そのケイ眼に敬服狂喜したのであった。その瞬間から玄斎は雇われマスターの堂々たる姿に憑かれ、寝てもさめても自分の威風にみちた雇われマスター振りが目から放れない。
玄斎は神蔭流のほかに、裏千家流や梅若流などにも多少の素養を有し、どういうわけだか小さい時から身ナリということに妙にこだわるタチで、そのためか、諸国の織物については変にこまかい知識があった。また布地を集める趣味などもあって、それが敗戦後の生活に大そう役に立ったのであるが、明治、江戸、室町時代ごろまでの布地なども多少は手もとに集めていた。自分の趣味のためではなくて剣術のお出入り先でそれを高く売りつけるような商法を昔からやっておったのである。
古い紺ガスリのサツマ上布が幸いにもまだ手もとにあるから、それに花色木綿の裏をつけて――落語では笑われるかも知れないが、このゴツゴツした服装こそは、雇われマスターとして大通の装束ではないか、なぞとホレボレと考えこむのであった。静々と板の間に手をつき額をすりつけて、
「いらせられまし」と最後の音を舌でまるめて飲みこむように発音する。
狂六が云ったではないか。七十にして益々若返り、十七八のチゴサンのようなミズミズしい色気が溢れている、と。自分でも近来とみにそのミズミズしさが自覚され、なんとなく変テコな気がしていたが、さては人々の目にまで十七八のチゴサンのミズミズしさが判ったのであるか。まさに神蔭流の奇蹟であろう。敗戦とともに、それまで一日たりとも休んだことのない竹刀を振りまわすのをや
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