洋で暮してきたというようなヒマ人が、ほかに仕方がないから出る新刊を次々と取り寄せてヒマにあかして読んだり寝たりしているのである。私の義兄(私の長姉が細君)紅邨もヒマにあかした雑学家で話の泉のお客ぐらいは楽につとまる物識りであるが、田舎の雑学の大家に共通していることは、大事の心棒が一本足りないということだ。大事なカンドコロ、理づめの理の心棒が欠けている。つまり、谷川岳の道標を書かせると、上下が逆さまだというのに気がついて、頭だけ逆さまにならないようにそろえるまでは気がついても、今度は左右逆の方向から書かないとアベコベの方向を指してしまうということまでは気がつかないような脆さがある。
幸い彼の住む山中は、まことに山も深く、雲も雪も深い山中ではあるが、附近に都人士が来り登るような名山がない。もしも谷川岳が彼の附近にあれば、土地の青年団とか世話人とかが、道標を立てるについて、その文字を書いてもらいにくるのは、彼のところにきまっている。と、彼は、大いに注意深く、熱心に書いたあげく、ついに登山家を死に至らせるような、天下どこに立てても通用しない表裏アベコベを指し合っている道標を書くようなことになったかも知れない。
私は彼でなくて良かったと思ったが、彼ならば同じマチガイをしたかも知れぬと思うと、身につまされて、やりきれなかった。
私がこの道標を書いたなら、マチガイは起さなかったであろう。しかし、それは程度の問題である。この道標の場合にはマチガイは起さぬけれども、これ以上複雑な、又、盲点をつかれる事情があった場合には、私も必ずマチガイを起す。私ばかりではない。あらゆる人が、マチガイを起す可能性があるのである。盲点のない人間は存在しないのだ。
これも無智の罪ではある。しかし、子供が道標の向きを逆にするようなイタズラとちがって当人は精一ぱい誠実であり、ミジンもイタズラ気がないのであるから、悲しい。アベコベの道標は、たしかに五人の生命を奪っている。怖るべき無智の罪ではあるが、あらゆる人間にまぬがれがたい悲しい罪でもある。自分はそのような罪を犯していないというのは怖れを知らぬ言葉で、いつ、どこで、これに類する罪を犯すか、のみならず、当人は犯した罪には気付かないのだ。
谷川岳のような人の多く死ぬ山で、人死にを少くする設備が殆ど施されていないらしいのが奇妙であるが、県の観光課とか日本登山家協会とかその専門の方面が責任を持って道標を立てずに、地元の民間人にそれを任せて済ませておくというのが第一の手落ちであろう。その手落ちは咎めることができるが、道標を書いた民間人の、悲しい罪は、どうにも、憎めない。わが身の拙さ、わが身の悲しさに思い至り、身につまされて、やりきれなくなるばかりである。人はどんなに善意をつくしても、このような切ない罪からまぬがれることは不可能なのである。この罪からまぬがれる唯一の方法は、一生何もしない、ということだけだ。
原子バクダンの発明以来、文明はその極限に来たかのような考え方が少からず行われているようであるが、原子バクダンなどというものは人を叩きつぶすだけの道具で、人を殺すぐらいカンタンなものはありやしない。人間が全然無智蒙昧な半獣人のころから、丸太ン棒一本あれば人を叩き殺すぐらい面倒はいらなかったものだ。
しかし、人のイノチを助け、病気を治すという方面を考えると、殆ど文明などというものは、未だによそを吹く風ではないかどいう気がする。人体の機能すら、いまだに正体は判然としていやしない。ゼンソク持ちはタクサンいるが、その正体も判然とせず、特効薬も未だしである。肝臓の機能は? 脳味噌の機能は? それも判然とはしない。貧乏人をなくする方法は? それも判然とはしない。文明などというものには、まだ大そう道が遠いのである。法律ですら、まだ親殺しという特罪が残っているような実状である。
私はしばらく帰省しないので、谷川岳の姿にも久しく接していないが、今回の事件であの秀麗な山容を思いだし、なつかしむこと頻りであった。人間の拙さ、無智と、その悲しい罪が、あの清涼な山のごとくに、身にしみる。五人の霊と共に、人間の拙さも、同じように、あわれまれてならない。
新年号であるから、風流について一席談じてくれということであったがこれが風流譚かどうか、まことに、おはずかしい次第です。
末尾ながら、明けまして、おめでとう。ウソつけ。今日は何日だ。そうか。いつだって、明けまして、おめでたいや。アバヨ。
底本:「坂口安吾全集 09」筑摩書房
1998(平成10)年10月20日初版第1刷発行
底本の親本:「新潮 第四八巻第一号」
1951(昭和26)年1月1日発行
初出:「新潮 第四八巻第一号」
1951(昭和26)年1月1日発行
入力:tatsuki
校正:花田泰治郎
2006年3月24日作成
青空文庫作成ファイル:
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