登山家協会とかその専門の方面が責任を持って道標を立てずに、地元の民間人にそれを任せて済ませておくというのが第一の手落ちであろう。その手落ちは咎めることができるが、道標を書いた民間人の、悲しい罪は、どうにも、憎めない。わが身の拙さ、わが身の悲しさに思い至り、身につまされて、やりきれなくなるばかりである。人はどんなに善意をつくしても、このような切ない罪からまぬがれることは不可能なのである。この罪からまぬがれる唯一の方法は、一生何もしない、ということだけだ。
 原子バクダンの発明以来、文明はその極限に来たかのような考え方が少からず行われているようであるが、原子バクダンなどというものは人を叩きつぶすだけの道具で、人を殺すぐらいカンタンなものはありやしない。人間が全然無智蒙昧な半獣人のころから、丸太ン棒一本あれば人を叩き殺すぐらい面倒はいらなかったものだ。
 しかし、人のイノチを助け、病気を治すという方面を考えると、殆ど文明などというものは、未だによそを吹く風ではないかどいう気がする。人体の機能すら、いまだに正体は判然としていやしない。ゼンソク持ちはタクサンいるが、その正体も判然とせず、特効薬も未だしである。肝臓の機能は? 脳味噌の機能は? それも判然とはしない。貧乏人をなくする方法は? それも判然とはしない。文明などというものには、まだ大そう道が遠いのである。法律ですら、まだ親殺しという特罪が残っているような実状である。
 私はしばらく帰省しないので、谷川岳の姿にも久しく接していないが、今回の事件であの秀麗な山容を思いだし、なつかしむこと頻りであった。人間の拙さ、無智と、その悲しい罪が、あの清涼な山のごとくに、身にしみる。五人の霊と共に、人間の拙さも、同じように、あわれまれてならない。
 新年号であるから、風流について一席談じてくれということであったがこれが風流譚かどうか、まことに、おはずかしい次第です。
 末尾ながら、明けまして、おめでとう。ウソつけ。今日は何日だ。そうか。いつだって、明けまして、おめでたいや。アバヨ。



底本:「坂口安吾全集 09」筑摩書房
   1998(平成10)年10月20日初版第1刷発行
底本の親本:「新潮 第四八巻第一号」
   1951(昭和26)年1月1日発行
初出:「新潮 第四八巻第一号」
   1951(昭和26)年1月1日発行

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