拓くべきものである。それぐらいの理も弁えずに、自分がこうだから、あなたもこうしろという思いあがった善良さは、まことに救いがない。善人の罪というものは、やりきれないものだ。
無邪気の罪も同じことで、道標のムキを変えるというイタズラは、その結果についての怖るべき罪をさとらぬ無智のせい、悪意はなくとも、無智ということ自体が罪だ。悪意がないだけ、救いがない。
しかし、今回の谷川岳の道標事件は、永遠に犯人は分るまいと思いのほか、まるで筋のよく出来た探偵小説を読まされたように、次から次へ謎がとけて、その結末も谷川岳の美しい姿にふさわしく、一抹清涼の感をともなって幕を閉じたようである。
この結末も、結局は無智の生んだ罪であるが、身につまされて、悲しい罪ではある。
法師温泉の主人公が、本人はさとらずに、道標を書きちがえていたのである。彼は矢印の形をした道標に、先ず、矢印を左にして左書きに、仙の倉平標と書いた。さて、その板を裏返しにして、又、左書きに、仙の倉平標を書いた。板を同じ方向のまま裏返しにすれば字が上下逆さまになるから、上下逆さまにならないように裏返して、左書きに書いた。ところが、上下逆さまにならない代りに、今度は左右逆さまになることを彼は気がつかなかった。つまり表を左書きにしたから、裏は右書きにしなければ、表裏同じ方向を指さないのだが、彼はそこまで気がつかずに、上下逆さまにならないことにだけ注意して、どっちも左書きにしてしまったのである。その結果、次のような道標ができたのである。
[#道標の図(fig43202_01.png)入る]
即ち、表と裏は矢印の方向に全く逆を指し合っているのである。道標を立てる位置をまちがえたというのは当らない。この道標は、天下のどこへ立てても完全に通用しない。なぜなら、表裏アベコベを指しているからだ。もとより、法師温泉の主人に悪意のあろう筈はない。彼は、両面上下をそろえて左書きの結果が、アベコベを指し合うことを気付かなかったのであろう。
この怖ろしい事実が判明したとき、私はふと、私の義兄である村山紅邨という、越後山中の造り酒屋の主人公の歌人のことを考えた。彼はその山中に六百年ほど代のつづいた旧家の主人で、雑学の大家でもある。だいたい田舎の旧家には、雑学の大家が多い。こんな山中にと思うところに、案外にも、西洋の大学の卒業生だの、十年も西
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