が、その後の成行については、まだ聞いていない。Iさんが大人げないと断念したのなら、まことに残念だ。芥川賞事件も殺人から民事事件に及んで、誰がワガママ身勝手であるか、ワカラズ屋は誰であったか、その足跡正体をおのずから筆の内外に叙述するとすれば、日本の文運、これによって隆盛をきたすこと明かである。画伯才媛通人いりみだれて虚実をつくすの壮観、オオ・ミステイクの不良少年少女が手記をものするのとちがって、品格あり、誰の眉をひそめさせるということもない。
 しかし「トマサン」という人の一生は日本人には珍らしい。あれを素材にして一篇の小説を書いてみたくなるほどである。もとより女学生時代の由起しげ子はトマサンの往時については空想的にしか知るよしもなく、偶然|巴里《パリ》で一夜顔を合わせた程度で、トマサンの為人《ひととなり》を理解できる筈はない。
 しかし、「トマサンの一生」に於て、彼女が悪役のイケニエにナマで供せられている如く、彼女の小説中に於て、彼女の姉夫婦が超特別の善人待遇であるに反して、トマサンの悪役待遇はナマの感情をムキダシに、やはり血のイケニエではある。
 二ツの作中のトマサンにたった一つの共通しているところは、離婚はトマサンの意志ではなくて、トマサンはその母や姉の意にしたがったらしいということ。由起しげ子がそれを信じているかどうかでなく、とにかく彼女の死せる姉はそう思っていたらしい。あるいはトマサンにそう「思わせられた」のかも知れず、菅原通人とてもトマサンにまんまとそう「思わせられた」と疑ることができないわけではない。人間の一生には、銘々がみんなそれぐらいのウソをのこして墓へしけこむものではある。それぐらいのウソはまことに可憐千万であり、当事者以外は腹を立てる筋合のものではない。
 私はトマサンなる遊び好きの旦那が、自分の意志でもなく肉親の意にしたがって愛する女房を離絶し、その後は悶々として、一生女房の面影を忘れ得なかったなどというのは、てんで信用ができないのである。トマサン自身がそういう甘さを愛して、その伝説の中に自ら籠城したのかも知れないが、人間というものは、本人が自らそう思いこむにしても、そう思いこまない半面の人生も併存し、決してそんなに甘い人間が実在するものではない。
 かりにこれが事実とすれば、この殺人事件の犯人は、本人の意志でもないのに恋女房を離婚させた肉親に最大の罪ありと断ずべく、次にそれに同意したトマサン自身が共犯で、同罪也と云わざるを得なかろう。法文学的に判断すると(法医学というのがあるから、法文学というものもあってもよいことにさせてもらおう)原告の告訴状からは、一昔前のトンデモ・ハップン女学生が今日に至り、芥川賞の女流流行作家となって一管の筆によって敵の息の根をたちウラミを晴らしたという大ドラマは、私が一人のヤジウマとしてその事実ならんことを切にもとめているにしても、とても真実と認定できがたいようである。
 かと云って、菅原通人の告訴状が怪しからんなどと、小生は決して思わない。由起しげ子が手前のことをタナにあげて警視総監や他人にも両手に二ツも荷物をぶらさげられないという理由があって然るべきことを没却してカンカン立腹していても、別に悪いとは思わない。わかったような顔をしたって、どうせ人間はワカラズ屋で、手前勝手なのだ。せいぜいハデにやるべし。両手に二ツも荷物がもてるかい。しかし、お前がもてないことがあるものか。この唐変木め。ガンバレ。負けるな。
 トマサンみたいに自殺するのが、結局、負けるということだ。負け犬はそッと埋めてやればいいものを、お通夜の枕元で酔っぱらってハップンする旦那方も――しかし、無邪気で、勇しいな。泉岳寺の四十七士などでも、根はそんな風にしてハップンしたもののようだ。鎌倉に四十七士が奮起するのも眠れる時代の慶事とや云うべし。しかし、敵は手ごわいですぞ。なんしろ、吉良とちがって、女ですからな。ぶてば噛みつくし、殺せば化けるというあの女ですから。ナギナタも心得があるし、キリリとハチマキもしめている。吉良のように物置へ隠れたりしねえや。山鹿流陣太鼓の音をきくや、トンと門を蹴破って、自分から往来へとびだしてくるよ。鎌倉四十七士ぐらいのヘナヘナ腰では、危いですぞ。
 しかし、トマの旦那も、敗れて悔いなしであろう。ロンドンのいとうるわしき伯爵夫人の柳の腰をいだいて、共に楚々と古城のほとりをめぐり、うれわしき悩みに沈む。

  廬《いおり》を結ぶ古城の下
  時に登る古城の上
  古城は疇昔《ちゅうせき》にあらず
  今人おのずから来往す

 年老い、ひとり古都の地に結廬して往昔をしのび物思いにふけり憂さを酒にまぎらすにしても、往昔泰西の地に於て、城主夫人の柳腰をいだき古城のほとりを歩いた花の時代あって、何の
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