あろうと、悲しかりしトマサンの生涯に何のかかわるところあらんや。
 トマサンこそはタラスコンのタルタランに、さらに身にあまる情慾の鬼を住ませたごとくに、自らも始末につかず、変幻奇怪で、おぼつかない。恋情の真たるや偽たるや、影なるや、夢なるや、よく知ってもいるし、なんにも知らなくもある。すべてに執着の念断ちがたく、すべてに諦めてもいる。どこに本当の自分がすんでいるのか、トマサンも知らないのだ。なぜ死んだか、本人だって分りやしないんだ。生きているのが、いつも精いっぱい、ふくらみすぎてオボツカナかったのにくらべると、死ぬ時の方がよっぽど単純で清々していたらしいや。鎌倉四十七士が義に勇み、仇討ちにでかけることはないなア。
 おまけに相手が女の子たった一人。自由都市鎌倉の地に於ては、新憲法以来、男の子が殺気立っているらしいや。
「どうも、女という奴は……」
 鎌倉の山々の杜から、男という男の咒いが妖雲となって、立ちのぼっている。
「カンベンならねえ」
 しかし、あなた方が円覚寺へ参禅したって元のモクアミだが、女はすでに竜と化していますぞ。女は元々気魄も猛く、武術の心得も深いものだ。殺人剣を会得していることも事実であるし、天性血を好み、闘争を好み、寄らば斬ろうと待ち構えているものだ。男子の剣術に於ては、刀をヤッとふり下せば頭をきろうとするにきまっている。頭を用心すればタクサンなのである。女の剣術はそんなものではないですぞ。ヤッと頭を斬る如くにして足を払っているかも知れぬ。否、剣が斬る、同時に、彼女の足は諸君の睾丸を蹴あげ、口中から針がとびだして目玉を突いているのである。鎌倉四十七士ごとき、とうてい敵ではない。諸士が血迷うのは、敵を知らざるものであり、又、大義に添うものでもない。
 諸士が親友の霊を慰めようと思うなら、由起しげ子を鎌倉の地に招待し、禅僧が祖師を敬する如くに敬拝して盛宴をはるのである。たぶん彼女は怒って敵地へ来ようとしないに相違ないが、諸士はそれによって敬拝の念を失ってはならぬ。毎日々々一人ずつ、彼女がついに死に至るまで、招待の使者に立って、むなしく断わられて帰るのである。一代にしてならずんば、子孫に志をつがしめよ。彼女の死に至って止む。その時に至って諸士は気がつくはずだ。円覚寺で何日坐ってもどうにもならなかったのに、どうやら自分が竜になったらしいということに。云う
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