が後日、愛人佐文の父と顔を合せたときの記述には、次のようになって表れてくる。
「そしてある日、思いだすのでさえ不潔感でぞっとする様な破廉恥な事が起きたのです。それも偶然でした。僕と彼女が同室に居った時彼女の父が帰って来たのです。今考えれば僕はきっと取りのぼせて冷静さを失って居たのでしょう。彼女の父の顔も見ず外へ飛び出して行ったのです。前々から彼女の父の気性も聞いていましたし、そんなのが影響したのか、僕は途中でよほど引返して僕達の仲を説明し理解と協力をあおごうと[#「説明し理解と協力をあおごうと」に傍点]思いましたが、余りにも自分のしたことの罪悪感にかられ[#「自分のしたことの罪悪感にかられ」に傍点]、二度と彼女の父の顔を見る勇気が出なかったのです。(中略)彼女の父の出方が僕は一番心配でした。そうしてその夜彼女と逢った時は彼女の口から一番怖れていることが表れました。と云うのは彼女の父が世の中の男と云うものは云々で正に浮薄の徒と見られているらしい僕の立場が判りました。それは若い男の心のプライドを傷けるには十分な四十男の世の見方でした。多少彼女の主観も入って居たかも知れません[#「多少彼女の主観も入って居たかも知れません」に傍点]。そうして僕達は互の心を探り合いました。二人の気持は変らないと云うのが話した後の結果でした」
彼は愛人の父を見て逃げだしたのを「思いだすさえ不潔感でぞッとするような破廉恥なことだ」と語っている。しかし「自分のしたことの罪悪感にかられ」彼女の父の顔を再び見る勇気がなかった。罪悪感とは彼女の処女を奪ったことだろうと思う。
彼は前節に「ぼくも同年輩の男たちと同様ガールフレンドを持ち、リーベと呼べる仲になったこともあります」と、明確にガールフレンドとリーベを区別している。そしてリーベになったというのは肉体的な交渉をもつに至ったガールフレンドという意味であるらしい。
しかし、それにつづいて「考えは大人びていても所詮行動は子供の域を脱し得なかった」と告白しているのは、男女関係についてマセた考えをもっていたが、所詮大したことはできなかった、リーベは何人もいたわけではなく、人が見るほど悪いことはしていない、という自己弁護の意味であろうと思う。しかし、直接自己弁護の言い方で語られていないだけ、この表現には実感がある。つまり、彼、自ら広言するほど身持ちは良くないにしても、大して悪いことはしていないし、できもしない、という彼の考えは、自己弁護ではなくて、彼が本当にそう思いこんでいると見ることができるであろう。
彼は佐文の処女を奪ったことで「再び彼女の父の顔を見る勇気もないほど」でありながら、同時に、途中から引返して「僕達の仲を説明して理解と協力をあおごうと思った」と語っている。彼は許しを乞うたり、結婚を懇願したり、するような考え方を持たないのである。一面に於ては対等であり、父ですらもない。単に「説明して理解と協力をあおごう」と思っているだけだ。若造のくせに生意気だというのは当らない。若年にして独立独歩の志操あってのことであり、この態度は排すべきものではない。一面「罪悪感にかられて」というのも、正直な表現であろうと思う。
通観して、彼は自ら悪党とも思っていないし、彼女の父という人間が、彼女の父である位置のほかには、対等以下のヒケメをもつ理由を知らないのである。だから、彼女の父が彼を浮薄な奴だと評したときいて、「若い男の心のプライドを傷けるに十分な四十男の世の見方でした」とガイタンしているのである。
しかし、最も注目すべき告白は、そのすぐ次の一行である。曰く、
「彼女の主観も入っていたかも知れません」
痛快なほど率直である。彼は愛人の心を常々疑っていたのである。つまり彼女に「浮薄な奴だ、いわゆるアプレだ」という風に見られていないかということを、疑心暗鬼でいたのである。しかし幸いにして「そうして僕達は互の心を探り合いましたが、二人の気持は変らないと云うのが話した後の結果でした」というように、彼のためにはメデタシ/\の結果が現れてくれたのである。
★
山際が手記の中で佐文との恋愛をのべている言葉と、佐文が二人の愛情を告白している言葉とは、面白い対照をなしている。
「左文[#「左文」に傍点]に逢ったのもトラブルが起きたのも偶然だったと思える様な気がします。しかし斯《こ》ういうことは変に小説めくのですが、確かに僕と彼女は何か宿命的な因縁と云おうか、始めて逢った時でも他人のような気がしなかったのです。そうして僕と彼女は幾何学的数(?)に発展していったのです」
彼は恋人佐文の字をまちがえている。つまり彼は「宿命的」な女に対して、手紙を書くようなことが一度もなかったに相違ない。彼がひどく神秘的なのに対して、佐文の告白はひどくリアルでハッキリしている。
「山際さんとは上京して数日くらいしてから階段や朝手紙を一階の宿直室まで受取りに行くときよく出会い知っていましたが、七月の終りごろだったか、ちょうどお休みの日、私が用事があって銀座に出ようと水道橋まで来ましたところ、後から追っかけて来られ、ちょッと話があると横道に呼ばれ、実は君と初めてあった時から君のことが忘れられない、君の気持をきかせてくれ、と迫られました。前々から山際さんは憎からず思っていましたのでつい「私もよ」と答えてしまい、その日は一しょに銀座へでて夜おそくまで遊びました」
それから二ヶ月交際ののち、
「今でも決して忘れませんが、去る十日の夜、私は山際さんから迫られて処女をささげました。このことは私は決して後悔してはおりません」
この二人の告白を対照すると、佐文は落着いているが、山際はヨタモノの柄になくとりみだしている。もっとも、事、恋愛に於てはヨタモノに限って却って神秘主義者になり、その感傷にひたりたがるムキがないでもない。しかし二ツの告白からうける感じは、佐文が大人であり、山際はそれにくらべて、よほどオッチョコチョイでもあるし無邪気でもある。
二人の告白が、たった一ヶ所ピッタリ一致している事がある。そしてそれがこの事件の中心的なものを暗示しているのである。
山際の手記。
「犯行のプランはそこで大体決まったのです。つまり今簡単に家出をするといっても、現実的な見方で見ると[#「現実的な見方で見ると」に傍点]、たとえ二人が共かせぎしても[#「たとえ二人が共かせぎしても」に傍点]、ちょッと生活の安定は保つ自信はなし[#「ちょッと生活の安定は保つ自信はなし」に傍点]、そうかと云って時は切迫している。若し僕が犯罪を犯すことになれば多くの人を裏切り、しかも始めから犯罪者は僕だということが判り切っていると、その時の僕の心の悶え、苦しみ、女と自分の立場の板ばさみ、理性的になればなるほど、心の中は苦しく現在彼女の苦境は所詮僕の罪であると考えがきまると、どうすればよいか判らなくなりました。所詮人間として僕が弱かったのです。愛情の生かし方に難点があったのです」
犯罪に至る原因の一つとして「現実的な見方で見ると、たとえ二人が共かせぎしても、ちょッと生活の安定は保つ自信はない」と言っているのが、今日的である。
たしかに今日は物価に比してマトモな給料が安すぎる。しかし、一人分の給料でも食えないわけではない。配給物なら食えるのである。しかし、今日的な考えでは、単に食って生きて行くだけでは、「安定した生活」ではないのだ。山際の考えでは、共かせぎしても、生活の安定に自信がない、のである。
これを佐文の告白を見るとハッキリしたことが分ってくる。
「父は月に一定のお小遣しかくれず、使いすぎたからといって請求しても、全然とりあってくれませんでした。こうした父と少しでも離れたい気持、この二つの点から、私は就職口を探しました」
一定の小遣しかくれず、使いすぎて請求してもとりあってくれない父と離れて、自分のお金がもうけたかったという。この請求[#「請求」に傍点]という言い方が面白い。使いすぎた金を請求することの当然なのを信じているようである。
この態度は、恋人に対しても、同断であることを示してもいる。彼女は恋人や、情夫や、良人に、「請求」するであろう。そして請求に応じない恋人や情夫や良人は、その資格がないという結論に当然なる筈である。
佐文の告白をよむと、山際がその手記に於て「二人共かせぎでも生活の安定は信じられない」といっていることが、彼にとっては実に悲痛な現実であるということがよく分る。佐文を満足させるには共かせぎぐらいではダメなのである。それを、しかし、自分の罪と見ている山際は、やっぱり一貫して、ナンセンスで無邪気な男だろうと私は思う。
さて、私は結論として、冒頭の一句にかえろう。
「恋をするにもゲル」
人生に夢をいだき、ロマンチストとして、ウェルテルの如く恋をしようとしても、現実はせちがらく金銭万能で、恋をするにもゲルがなければダメ、というような、思いもよらないハメに追いやられてしまうという。
彼は佐文を宿命の女と見、かぎりない愛情をもっていつくしんでいるようだから、彼女を恋するにゲルが必要だということを呪っているわけではないだろう。自分の場合と切り放して世間一般の風潮として論じているつもりかも知れない。
しかし彼は気がつかなくとも、恋をするにゲルが必要だという性格は、佐文の負うている宿命のような気が私にはする。彼女は身持がかたく、山際に処女をささげただけであるというが、しかし、その問題とは別に、恋よりも金、恋よりも華美な生活、そういう思想を身をもって帯びているのが佐文のように思われるが、いかがなものか。ゲルのためにはイヤな四十男の言うこともきく、山際は佐文に於てではなく、女一般として、それを悲しく肯定しているようだが、佐文の宿命を感じているせいではないかと、私はなんとなく彼が哀れに思われ、又、おかしくて仕様がないような気持にもなるのである。そして恋よりもゲルという佐文の性格も、悪党の性格ではなく、女の悲しく愛すべき性格ではないかと私は思う。
底本:「坂口安吾全集 09」筑摩書房
1998(平成10)年10月20日初版第1刷発行
底本の親本:「新潮 第四七巻第一一号」
1950(昭和25)年11月1日発行
初出:「新潮 第四七巻第一一号」
1950(昭和25)年11月1日発行
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5−86)を、大振りにつくっています。
入力:tatsuki
校正:花田泰治郎
2006年3月24日作成
青空文庫作成ファイル:
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