に、病気をいなし、自家流の療法を自然に実行しているものである。時々の旅行のようなこと、スポーツ、魚釣り、各人各様に息ぬきを見つけ、気附かぬ病気を巧妙にいなしているものである。
私の場合で云うと、私は居を移すクセがあった。どうしても、そうせずにいられなくなり、いたたまらなくなって、突如として居を移している。学生時代は単に引越しで、距離的にも百米、千米足らずのものであったが、だんだん距離がのびて、家出となり、放浪となった。三十歳以後は東京から京都――東京――取手(茨城県)――小田原――東京。だいたい、一年三四ヶ月の長いものから、十一ヶ月の短いものまで、一年前後の周期で移動していた。
私のような身軽な者は、そんな勝手なことができるけれども、定業のある人にはできない。だいたい精神病というものは、いつでもその土地を立ち去ることができたり、その人から離れることができたりするような、四囲と自分とのツナガリに、根柢に於て無関心なものが土台になっている限り、発病しないように思う。なぜなら、そこを立ち去れば、すむことなのだから。
無関心――この反対を私流に「甘える」ということにする。たとえば、土地や人に甘えるという関係ができると、発病し易くなるのである。甘えるものがなければ、精神病は起らない。
甘える対象は父母とか女房子供には限らない。会社の同僚、友人、先輩、保護者、上役、いろいろ有りうる。私のように、多くのものを根柢に於て無関心の関係におくことができて、多くの人からも土地からも、いつでも勝手に去ることができる立場の者とちがって、一般の人々は、家からも職場からも去ることができないような不自由な生活――言い換えれば、甘えざるを得ぬ生活をしているものだ。私のように物を突き放してサッサと去ることはできないから、屈して甘えざるを得ない。何ものかに甘えざるを得ず、甘える対象ができると、精神病は発病しやすくなるようである。
精神的な孤独人――実は非常に交友関係がひろく、世間的な生き方をしている人でも、いつでもそれを突き放し、それを去ることができるような、根に無関心が土台になっているうちは、精神病が起りッこない。(あんまり、あたりまえすぎるかな?)
つまり、精神病というものは、内臓疾患のような必然的な病気じゃなくて、他とのマサツや、そこから脱しがたい関係があって、発してくるものだろうと思
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