プンとして鼻持ちならないものであった。骨董イジリの閑雅な精神には縁遠いものであった。
 晴耕雨読の心境ぐらいカンタンなものはない。乞食の心境である。人間というものは、助平根性や物慾や、妄執と一しょのもので、芸術は現世のものであり、そこから離れて存在しない。
 ミイラは現世だけしか見ていないのだ。その身は万年の後に残ることを考えていたかも知れぬが、見ていたものは現世だけだ。現世と、そして、妄執だけなのだ。そして、現世への妄執が具現したものが、法隆寺であり、金色堂であり、東照宮であった。高雅な精神などは、どこにもない。
 しかしながら、私のように、芸術家の素質が不足していると、ミイラになりかけてみないと、俗悪になりきることができないものだ。なんとなく高雅なものを空想したり、自分のみじめな現実に負けたりして、俗悪精神を羽いっぱいひろげることができない。チエホフだの、ショパンだのという人はミイラになりかけなくても、それができたのだから、天才なのである。
 私はミイラになりかけて、ようやく人間を見たようなものだ。あるいは、人間に、本当の人間になりかけたのかも知れない。
 数学だの物理学というものの新発見は、その人の十代から二十代のうちに行われるのが通例だそうだ。あとの一生はそれをフエンする一生だという。
 文学も、まア、そうだ。その人の限界は、だいたい二十代にそのキザシが確立されている。あとは技術的に完成するか、迷路を廻り路するか、そんな風にして、ふとっていくだけのことだ。
 しかしながら小説の技術というものが、修練と同時に、これも亦発見を要するものでもある。私はこれを俗悪の発見と名づける。万人の俗な根性を惹きつける最低線で、軽業を演じることが必要なのである。つまり、現世に生きなければダメなものだ。すくなくとも、作者は現世だけを見ていなければ、ダメなものだ。
 私はまだ、ミイラになりかけたばかりで、半出来までもいかないから、根気がつづかない。半出来のミイラが目の玉を光らせて迷っている図はバカバカしい。
 仙人は雲から落ちるが、ミイラは落ちない。人間よりも地べたにおり、人間よりも妄執と一しょにいるのだから、人間よりも鼻持ちならないのだから、人間に昇格することはあっても、落ちるはずはない。ねむるように死ぬことと、女を追っかけるということと、いっしょにいるようなのがミイラなのである。



底本:「坂口安吾全集 09」筑摩書房
   1998(平成10)年10月20日初版第1刷発行
底本の親本:「新潮 第四七巻第七号」
   1950(昭和25)年7月1日発行
初出:「新潮 第四七巻第七号」
   1950(昭和25)年7月1日発行
入力:tatsuki
校正:花田泰治郎
2006年3月24日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
前へ 終わり
全2ページ中2ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
坂口 安吾 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング