夫と私との中間には、幾人かの男と交渉があった。それを女房はある程度までは(と私は思うが)打ち開けていたが、私もそれを気にしなかったし、女房も前夫と結婚中は浮気をしなかった、私と一緒のうちも浮気をしない、浮気をする時は、別れる時だ、ということを、かなりハッキリ覚悟している女であった。
 私は心理の表現に、カナリだとか、イクラカだとか、数量的にこだわるタチがあるのだが、持って生れた根性で、どうしても、そうなる。心理の数量上の微妙さが頭にからみついているのである。時々、それを全部払い落したくなる。そうすると、全部の説明を省く以外に手がなくなる。この方法で、気持の一端を満足させるが、他の気持をギセイにした不満によって、苦しむ。これは私の職業上の秘密の一つだ。
 女房は、私からでなく、他の誰かしらから病毒をうけたかも知れないという可能性はあるのだが、それによって、私自身の罪の意識を安心させるワケにもいかない。
 私は女房のニンシンの話をきいて、まず病毒のことを考えて、暗くなった。
 それからニンシン日時をかぞえてみて、その期間に(正月前後だが)酒も過度に飲んでいるし、催眠薬も、覚醒剤も、のんでいる。どれ一つとして、生れてくる子供に遺伝して健全なものはない。
 私はちかごろ再びかなり過度の仕事をしはじめた。時にはやむを得ず覚醒剤や催眠薬のヤッカイにもなるが、その用法には注意をはらっているし、過労に対処する方法として、ムリの限度をこさぬよう、そして、過労後の休養についても考慮を忘れたことはない。私自身としては、生活は健全で、仕事に対する緊張は爽快でもあり、毎日がかなり明るい。私自身としてはそうであるが、座右の品々が生れてくる子供に健全だとは云われない。
 けれども、それらの遺伝を怖れて、ダタイするだけの決断もない。ニンシンの前後に、クリスマスの前夜であったが、女房の貞操を疑ってもいいような事件があった。女房の父母と男が謝罪にきて話はすんでいたが、生れる子供が私の子供ではないかも知れぬという理窟をつけてダタイするだけの気持はない。
 私は女房の貞操を信じていたし、過去は忘れるというのが私の心構えの一つでもあったが、この考えが、女房のニンシンで、ちょッとばかしグラついたのも事実であった。
 どうしても私の子供のようには思われない。なぜなら、私に子供が生れるなら、とッくに生れていなければならないはずだ。女房の場合だけでなく、ほかの女の場合にも。その機会は過去に幾度かあったが、女がニンシンしたということがなかった。
 淋病を患ったり、腰を冷やしたりすると、精子を失って、ニンシンに無能力になるという。二つながら、私には思い当るところがある。
 私は戦争中から一昨年まで、七ヶ年にわたって、冷水浴の習慣があった。真冬はやれないが、春から秋まで、時には初冬まで、やる。
 事の起りは、戦争中、燃料が不足して風呂がわかせなかったことと、銭湯が休業がちであったことが原因だが、元来が、夏になると、日に何回となく水風呂をあびて暑気を払う習慣があったのを、風呂代りに冬まで延長したのである。
 その家は水道がなくて井戸水だったから、夏ですら水につかった瞬間にはドキリとするが、秋から冬には同じ瞬間に失心状態となる。意識が冷感の彼方に距てられ、霞んでしまう。一分二分と失われた意識が次第に霞を払いながら戻ってくると、一時はいくらかの爽快感にひたる何分何秒かがあるのである。そのうちに、骨にまで寒気が徹して、たえがたくなって、とびだす。とびだしたとたんに今度は完全に気を失って、ボーとかすみ、ヘタヘタくずれて膝をつき、背中をまるめて、前方へのめっていたことがある。どれぐらい気を失っていたか知らないが、何年かの十二月六日だった。それ以来、冬はやらないことにして、だいたい十月一ぱいぐらいで打ちきることにした。
 七ヶ年もこんな荒っぽいことをしていたから、腰を冷やす段ではない。全身を冷やしつづけたワケで、精子というものが冷気で死ぬなら、とっくに死んだであろう。水風呂以前にも、私は七ツ八ツの頃からの海水浴狂で、東京に住みはじめて、何が切なかったかというと、夏に思うように海水浴のできないことなどが、その一つであった。毎年、ふるさとの海で、秋がふけると、海辺に立つ人の姿は私一人だけになる。秋になると、日本海は連日の荒天だ。浜には人の姿もなく、人の歩いた跡もない。波にクルクルまかれているのは、言うまでもなく、私だけだ。海も愛したが、孤独も愛したのだ。それがいつの年も秋の荒天まで私を海へひきとめたのである。
 しかし、秋の海は、日本海に於てすら、十月になっても、そう冷めたくはない。真夏に熱せられた海の水というものは、なかなかさめないものだ。たぶん、日本海に於ては、十月の海は六月の海よりも、時には七
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