かりでなく、その人柄も万人の師たる高風があり、里人に厚く慕われている立派な人だそうだ。さればこそ法神流が流行するのだ。自らの至らぬことをタナにあげて人を嫉んではならぬぞ」
鹿蔵をきびしく戒め、自身房吉を訪ねて門弟の不埒を深謝したことがあった。剣ではこの土地で別格の名門たる念流の当主ですらこのように謙虚な心で剣に仕えている。これが上州の百姓剣というものだ。その太刀はあくまで鋭く、その心はあくまで曇りなきものでなければならなかったものなのだ。
この土地では剣客の心がこのように謙虚に結ばれているのが例であるのに、伊之吉と山崎孫七郎の無理無法、房吉自身の仕える剣とは余りにも相容れない邪剣邪心、腹にすえかねたから、かかる邪剣の横行を許して剣の聖地を汚してはならぬと房吉は堅く心に決するところがあった。この決意を妻と舅には打ち明かして、
「敵は剣客の名を汚す卑劣漢、弓矢鉄砲を用いても私を討ち果す所存でしょう。私は一死は覚悟いたしております。ただ卑劣漢に一泡ふかせ、弓矢鉄砲も怖れぬ正剣の味を思い知らせてやるだけで満足です。小さな人間一匹がむやみに大きな望みをもつのを私はむしろとりません。剣に神を宿らせたいと願うような大志も結構ではありますが、小さな死処に心魂をうちこむこと、これも人の大切な生き方だろうと思います。好んで死につくわけではありませんが、満足して小さな死処についたつつましいところを地下の法神先生もよろこんで下さるかと思います」
その決心は磐石のようだ。とうてい房吉の決意をひるがえす見込みはないから、先方をうごかす以外に仕方がない。そこで薗原村の大庄屋惣左衛門にたのんで、伊之吉をうごかすために仲裁の労をたのんだけれども、あくまで心のねじけている伊之吉はてんで耳をかそうとしない。惣左衛門も呆れて、
「私の村からお前さんのような悪者がでては、私はもう世間様に顔向けできない気持だね。そんな奴がのさばるぐらいなら私はさっさと死にたいから、私の首を斬っておくれ」
「そんな薄汚い首と引き換えにこッちの首が落ちては勘定が合わないね。しかし、せっかくの頼みだから、お尻でも斬って進ぜようか」
「なんという失礼な奴だ」
「アッハッハ。剣と剣の勝負、あなた方が余計な口だしは慎しんでいただきたい」
仲裁の見込みもなかった。
★
天保二年、三月十一日、夜八時。房吉は
前へ
次へ
全13ページ中10ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
坂口 安吾 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング