「今日は、奥さん。からだをもらふよ」
 彼は上衣のポケットに手をつッこんで、私の前に突ッ立つて、せゝら笑つた。私はすくんだ。恐怖のためではなかつた。彼のせゝら笑ひのアイクチのやうに冷めたい鋭利な刃ざはりの妖しさのせゐであつた。
「怖いか。怖がるのも、是非がない」
 彼は又せゝら笑つた。私は女だから、とつさに、びつくり怖れてゐるやうな構へになるのだらうが、私は然し、ミヂンも怖れてはゐなかつたのだ。私はまつたく妖しさにいちづに酔つて堅くなつてゐた。私はむしろ祈つた。彼が、うまく、やつてくれゝばよい、と。
 いやらしさや、助平たらしさや、みすぼらしさを表はさずに、堂々と私を征服してくれゝばよい、と。失敗するな、成功して、と。
 私は彼がすこしでも、みすぼらしさ、いやらしさを見せると、テコでも彼をつきのけ、つきとばす私の理知を知つてゐた。私は酒には酔へない。男の美しさ妖しさの花火には酔へる。その花火には、私の理知は無力であつた。
「オレは奥さんなんか、きらひだ。奥さんぢやない、ノブ子。ノブ子はきらひだ。然し、半分ぐらゐ、すいてやる。酒をおごつてくれるからさ。改めて、お礼申上げておくよ。今日は、総決算だ。さうぢやないか。オレみたいのノンダクレでも、毎日同じことをしてゐるうちには、いゝ加減、あきあきするよ。地獄へ行かう。散歩に、行つてみたくなつたんだ。オイ。ノブ子。からだをかせ」
 ミン平は小さな肩をせりあげて、ポケットへ手をつッこんだまゝ、どしんと体当りした。それからポケットから手を抜いて、私を白々とした顔でにらみながら、抱きしめようとした。
 私は胸が痛むほど、すくむほど、悲しいほど、うれしいやうな気がしたのだ。そのくせ私はミン平の傲慢な顔つきに、むらむらした。だつて、さうではないか、傲慢で、いゝのだ。せめて、お前が好きだ、といつてくれなければ。どんなに高慢ちきに私を抱きすくめてくれてもいゝのだ。お前が好きだといふ思ひのたけが、高慢の虚勢の裏から女の心を慰めてゐてくれなければ、ひどすぎる。
 私と彼は同じぐらゐの身の丈だつた。酔つ払つた彼よりも、私の方が敏活にきまつてゐた。彼はいきなり接吻しかけた。私は怒りがこみあげた。私は彼をつきとばした。
「なぜ、鍵をかけたのよ。コソドロみたいな、三下奴《さんしたやっこ》みたいな、口説き方はしないでよ。あなたみたいな青二才にナメられた口説かれ方がされたくて、つきあつてゐるのぢやないわよ。鍵をあけて、ちやうだい。そして、私の下駄をキチンとそろへて、私を送りだしてちやうだい」
「うん。いづれは、あけてやる」
 彼はよろめきをこらへて、立止つて、再び手をポケットにつッこんで、うつむいて、目をとぢてゐた。
「オレは、いつぺんいつたことは、やりとげる。これだけ、つきあつたのだから、それぐらゐのことは、お前さんにも分つてゐるだらう」
 彼はポケットから、カミソリをだした。不器用な手つきで、刃をあけると、急にづかづかと進んできて、私の胸にハスに一文字にいきなり、ひいた。
 私は悲鳴をあげた。むしろ、息をひいたのだ。私は悲鳴をのみこんでゐた。彼の顔にいきなり浮んだ不逞なゆがみは、まさしく全力的な殺気であつた。そして彼はハスに一文字にカミソリをふつた。私の帯は二つにきれてゐた。彼はまた、白い顔で、陰気に私をにらんでゐた。
「オイ。帯をとけ。とけなきや、オレが、もう一度、切つてやらうか。今度切れば、何が切れるか、オレは知らん」
 彼の顔は、また、殺気にゆがもうとした。私はふるへて、叫んでゐた。
「とく! どいて。ひどいぢやないの」
「ぢや、とけ」
「だつて、見てゐる前ぢや、とけないわよ。電気を消して」
「電気か。ふん。消してやる。然し、帯だけとけ」
 私は帯をといた。私は然し、彼とにらみあつて帯をとく身のひきしまる感動に苦悶のよろこびを感じてゐた。
「よし。上の着物を一枚ぬげ」
「卑怯ぢやないの、男らしく、約束をまもつてよ」
 彼の身体がづかづか進んできた。恐しい速度で、大きな男の山のやうな影がおしかぶさるやうに思つた。私はふるへた。恐怖と同時に、めまひのやうな全身的な酔ひがあつた。私のからだを一文字に小さな叫びが走つたが、それは興奮の叫びであつた。彼のからだは私にぴつたりくつついた。何かゞ胸を押した。そして彼が離れると、私のヒモが切れていた。彼は片手で電燈のスイッチをにぎつて、私を見つめた。
「早く、ぬげ。ぬげば、消す」
 私はぬいだ。彼は私を見つめていた。急に光が消えた。
「寝床へはいつて待つていろ」
 私は万年床へはいつた。はりつめた力がゆるんでゐた。同時に別な緊張が息苦しいほど私の全身を押してきた。彼がどんなふうに私を抱いてくれるのだらうか、といふ、悲しいほどの、よろこびであつた。どんなふうにでも、されてやらう。私は、どんなにされても幸福なのだ、と思つた。一生のうちに今日ほどの幸福な日はあるはづがないのだ。この日を限りに、地獄へ落ちても、如何なる悲惨な運命がひしめきせまつても、この日を悔いてはならないのだ、と思つた。私は彼の何かやさしい小さな一言がかゝつただけでも、鳴咽しさうな気がした。
 しばらくの時間がすぎた。彼が何をしてゐるのだか私には分らなかつた。もう彼が何をしてゐても、よかつた。すると、突然、電燈がついた。私は小さな叫びをあげて、蒲団をかぶつた。
 彼は私の抵抗を排して、蒲団をはいだ。然し、そこに見出したものは、悄然と坐つた、弱々しい、男であつた。
「奥さん。あやまる。オレは、精いつぱいだつたんだ。こんなムゴたらしいことをせずに、奥さんと、お別れするつもりだつた。オレのことなんか、忘れてくれ。木村さんの良い奥さんになつてくれ。あの人は善良な人だよ。オレなんか、くらべものにならないんだ。オレはどんな女でも一晩ねる以上の興味がもてないやうなヤクザが魂にしみた人間のくづにすぎないよ。奥さんはわがまゝなんだ。木村さんに甘へすぎてゐる。肉体の満足なんて、タカが知れてゐるよ。そんなものクヨクヨしなさんな。奥さん、かんべんして、帰つて下さい。私が仰せの通り下駄をキチンとそろへる。ほんとに、すまん、帯をきつたり、着物をぬがせたり、そこまでするつもりはなかつたのだが、逆上してしまつたんだ。我ながら、これほど、別れぎはが悪い男だとは思つてゐなかつたんだ」
 彼の顔に弱々しい苦笑が浮んだ。
「オレはさつき、暗いうちに、クビをかき切つて死なうかと思つてたんだ。然し、奥さんをねせておいて、悪趣味な芝居気も気がさしたからな。まつたく、悪夢だつた」
「ぢや、もう死なないの」
「どうだか、分らん。だが、芝居気は、もうない。オレの死ぬのは自然なんだ。もう生きてもゐたくなくなつただけだから」
 私は興奮のために、みるみる冷めたく堅くなつて、ふるへた。私は起き上つて叫んだ。
「私を殺してよ。そして、あなたも死んでちようだい」
 彼は目をとぢて薄笑ひをうかべた。私はむらむら逆上した。いきなり飛びかゝつて彼のポケットからカミソリをつかみだして刃をぬいた。すると彼は深い目をして、沈んだやうに、私を見てゐた。こんな表情を、たれの場合も、私は見たことがなかつた。ヤケのドン底なのだらうか。死神がのりうつつてゐたのだらうか。私は息がとまつた。私は彼が何かいつてくれなければ大変なことになると閃くやうに思つたのだ。然し、彼の目は、あまりにも美しすぎた。
「あなたが私を殺さなければ、私が殺すわよ。それでいゝの。あなたが先に死んでも」
 彼は返事をしないのだ。深い目で、なんだか、そ知らぬやうに、私を見つめてゐるのだ。私は悲鳴をあげさうだつた。何か、いつて。一言。言つてくれなければ、もう、ダメぢやないか。
「殺すわよ。いゝの! 殺して」
 彼の深い目が、私を、ゆつたり見つめてゐた。私の方が先に叫んだ。ギャッといふ叫びが私ののどから走つた。そして私はカミソリを彼のクビに押しあてゝ力いつぱいひいてゐた。
 彼はグラグラして私の方へ倒れた。
「よし、ひいてくれ。力いつぱい」
 彼はたしかにさういつた。然し、それが、どの瞬間に叫ばれた声であつたか私はもう思ひだせない。彼のクビから一時に血がふきだした。その血は私の胸にもとびかゝつたが、まるで大きな噴水の柱にたゝかれたやうに強くて重い力がこもり、私はそれが彼の愛情のすべてのあかしであるやうな、なつかしさに激動した。
 私は彼を仰向けにした。彼はまだ苦悶してゐた。口をあけて、息をしてゐた。
「ミヅ……」
 私は見廻して水をさがした。彼の最後ののどの乾きを医《いや》さずにゐられやうか。私は然し一つの閃く考へのためにピリピリした。私は彼を見つめた。苦しげであつたが、どこか安らかな翳があつた。私の胸はみちたりてゐた。私は私のクビを切つた。私はうつぶした。私のクビのきり口が彼の口に当るやうに。私の血の噴水が彼ののどの乾きをみたす楽しさに、私はうれしかつたのだ。私の胸は燃えてゐた。そして冷めたく、冷静だつた。そして、すべてが、分らなくなつた。



底本:「坂口安吾全集 05」筑摩書房
   1998(平成10)年6月20日初版第1刷発行
底本の親本:「サンデー毎日 臨時増刊号」
   1947(昭和22)年5月1日発行
初出:「サンデー毎日 臨時増刊号」
   1947(昭和22)年5月1日発行
※新仮名によると思われるルビの拗音、促音は、小書きしました。
入力:tatsuki
校正:深津辰男・美智子
2009年4月20日作成
青空文庫作成ファイル:
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