ばかり、秀才だの半分天才などといふものはもう無限の自由の怖しさに堪へかねて一定の標準のやうなもので束縛される安逸を欲するやうになるのである。
戦国時代の権謀術数といふものはこれ又自由の天地で、力量次第といふのであるが、かうなると小者は息がつづかない。薬屋の息子だの野武士だの桶屋の倅《せがれ》から身を起して国持ちの大名になつたが、なんとかこのへんで天下泰平、寝首を掻かれる心配なしに、親から子へ身代を渡し、よその者だの自分の番頭に乗ッ取られるやうな気風をなくしたいといふことを考へるやうになつた。
信長が天下統一らしき形態をととのへ得たころから諸侯の気持はだいたい権謀術数の荒ッポイ生活に疲れて、秩序にしばられ君臣の分をハッキリさせて偉くもならぬ代りに落ぶれも殺されもしない方がいいと思ふやうになつてきた。秀吉の朝鮮征伐に至つて諸侯の戦争を厭ふ気持はもうハッキリした。そこでそれまでは松永弾正だの明智光秀のやうな生き方がまだ通用してゐたのだが、その頃からはかういふ陰謀政治家やクーデタ派は一向に尊重せられない気風となり、諸侯は別に相談したわけでもなく家康を副将軍と祭り上げ、それにつづく人物は前田利家だときまつてしまつた。これが三十年前、信長青年頃の世相であつたら家康だの利家が人物などと言はれる筈はない。黒田如水とか島左近などといふのがむしろ人物と言はれたであらう。
家康の出処進退といふものは戦国時代には異例であつた。彼は信長と同盟二十年間、ついぞ同盟を破らなかつた。同盟を破らないのは当り前ぢやないか、と今日は誰しも思ふであらうが、当時は凡そ同盟をまもるといふことが行はれてをらぬので、利害得失のために同盟を破るのが普通であり、損を承知で同盟をまもり義をまもるなどとは愚かであり、笑ふべきことであり、決して美談だとは考へられてをらなかつた。家康はその愚かにして笑ふべきことを二十年間まもりつづけ、信長の乞ひに応じて勝つ筈のない信玄相手の戦争もやる。この戦争のときは家来が全部反対で、絶対に勝ちみがないのだから同盟の約を破つて信玄に降伏する方がいいと主張したものだ。戦争を主張し同盟を守ることを固執した唯一の人物が家康であつた。そして予想せられた如く完膚なく敗北し、家康は血にそまつて、ともかく城へ逃げ帰ることができたのである。さうかと思ふと姉川の戦には乞ひにまかせて取る物もとりあへず駈け
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