れば四五十万石を与へて自分の家来にするか、どつちみちその一方が名も実権も共にとらざるを得なかつた。彼は征夷大将軍を称し頼朝の後裔たることを看板にしたが、幕府の経営方針などにも多分に頼朝を学んだ跡があり、義経だ行家だとバッタバッタ近親功臣を殺してまで波立つ元を絶つていつた血なまぐさいやり口まで頼朝に習つた感がある。昔はさうでなかつたのだが初犯以来は別人で、だんだん慾がでてきたのである。豊臣家乗取りの方策などでも出来れば頼朝の故智を習つて綺麗にやりたかつたであらうが、何と云つても両家対立の事情と朝廷武家対立の事情とは根本が違ふので綺麗ごとといふわけに行かない。元来が保守的な性癖で事を好まぬ家康で、狸どころか番犬のやうな気の良いところもあるのだが、ええママヨとふてくされて齧りつくと忽ち狂犬の如くになつたので、アラレもなくエゲツないやり口が寧ろ家康の初々しさを表してゐると見てもよい。
信長が横死する。いちはやく秀吉が光秀を退治して天下は秀吉のものとなつたが、同時に世人は家康を目して天下の副将軍といふやうになつた。小牧山で戦闘の上では秀吉をたたきつけてゐることが評価せられた意味もあるし、信長とは旧来の同盟国の家柄で成上りの秀吉とは違ふといふやうなその不遇に対する同情もあつた。然し、家柄への同情といつても本人に貫禄がなければ仕方がないので、織田信雄が信長の子供だと云つても実力がなければ仕方がない。万事実力が物を言ふ戦国時代であつた。
ところが実力といつても各人各様で、人物評価の規準といふものは時代により流行によつて変化する。陰謀政治家が崇拝せられる時期もあれば平凡な常識円満な事務家の手腕が謳歌せられる時期もある。家康がおのづから天下の副将軍などと許されるやうになつたのは、たまたま時代思潮が彼の如き性格をもとめるやうになつたので、彼は策を施さず、居ながらにして時代が彼を祭りあげて行つた。
当時の時代思潮は何かといへば、つまり平和を愛し一身の安穏和楽をもとめるやうになつたといふことだ。一般庶民が平和を愛するのはいつの世も変りはないが、槍一筋で立身出世をし、戦争を飯よりも愛した連中が戦争に疲れてきた。
日本の戦争は武士道の戦争だなどと考へると大きな間違ひで、日本の戦史は権謀術数の戦史である。同盟だの神明に誓つた血判などと紙の上の約束が三文の値打もなく踏みにじられ、昨日の味方は
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