時々まちがへられて、てれること夥しい。近所にちぬの[#「ちぬの」に傍点]浦孤舟といふ浪花節の師匠が住んでゐた。軍記物の名手ださうで、関西ではかなり名の売れた師匠ださうだ。僕が最初三目置いたが歯がたたない。碁の半玄人《はんくろうと》で、まづ三級といふところだ。
 この師匠、碁が道楽で、来る匆々《そうそう》まづ一ヶ月の会費を払ひこみ、近所に結構なものができた、毎日通ふと意気込んだが、翌日からふつつり見えない。そのうち近所の碁打ち同志に、今度の倶楽部はへぼ倶楽部だ、といふ風評が行き渡り、お客がまつたく来なくなつてしまつたのである。風評の火元は師匠だつた。碁を習ひに行つたら、あべこべに先生に教へて来たと云ふのである。これには先生、穴の中へもぐりたかつた。
 へぼ倶楽部。うむ。なんとうまいこと言ふ奴ッちや、と、倶楽部の面々讃嘆時を久ふして、誰ひとり腹を立てる者がない。僕のみ、ひとりひそかに心に期するところあり、一大勇猛心をふるひ起したのは、流石に先生の貫禄であつた。
 そのころ、ちやうど千枚ちかい小説を書き終つたのだが、まつたく不満で、読むに堪へないのであつた。千枚の大量の仕事が、まつたく不満であるときの落胆の暗さは、せつない。二度と立ち上る日を予期できないほど、打ちのめされ、絶望に沈まざるを得なかつた。
 その落胆と焦躁は、文学と絶縁せずにゐられぬ思ひに、人を駆り立てるものである。そのうへ病気で、正当な野心を育てる大精神は、滅入り、くさる一方であつた。
 暫く碁に心魂を打ちこんで、落胆を洗濯することにした。
 噂にきくと、同じ伏見深草に、島といふ強い二段がゐるといふ話であつた。関さんを使者に立てゝ依頼すると、この二段は気軽に出張を快諾した。
 寝ては夢、起きてはうつつ、といふ文句は、この時だつた。目を覚ます。とたんに僕の頭の中に碁盤がある。すでに石立がひとりで動きはじめてゐる。
 昼は一日書物を睨んで定石を暗《そら》んじ、夜は碁会所に現はれて、忽ち実戦に応用する、といふ熱中ぶりだ。三ヶ月間つづいた。碁の定石と、外国語の文法は、同じ程度の学力によつて習得できるものである。
 久方ぶりに姿を現したちぬの[#「ちぬの」に傍点]浦孤舟師匠を忽ち互先まで打ち込んだときは、ために碁会所も鳴動するばかりの拍手大喝采であつた。うちの先生は強いもんや、と云ふことになり、師匠はその日から最も熱心な常連となつた。碁会所の繁栄は暫くつづいた。

      (三)[#「(三)」は縦中横]

 碁会所が繁栄するにつれて、お客の中には、うるさいことを言ひだす人が、だん/\あつた。関さんの評判が悪いのである。
 関さん碁が大好きだから、お客を見ると、まつさきに合戦を挑み、忽ち夢中となつて、あとから来たお客の方は見向きもしない。
 ぼんやりしてゐるお客がゐても、自分の合戦を中止して、敵をゆづるといふ大精神が完全にないのである。勝てば忽ち気を良くし、いや、あなたはちよろいと納まるし、負ければ大いにいきりたつて、負け惜しみを並べ立てること騒々しい。
 合戦中はつり銭をだす労力も面倒なので、あしたにしておくれやすと云つて、見向きもしない有様だつた。したがつて、よつぽど幸運なお客だけが、関さんに座布団をすすめられたり、一杯のお茶にありついたり、するだけだつた。関さんは碁席に寝泊りしてゐたが、来客が揺り起すまでは、決して自発的に起きないといふ磐石の信念を変へなかつた。
 食堂の親爺は金主だから、お客のぼやきをきくたびに、焦ること一通りでない。
 常連もふえて、有段者も二三あつたが、Kさんといふ一級の人が、力はいちばん強かつた。商売に失敗し、芸で身を立てようと思案中であつたから、好機逸すべからずと食堂の親爺夫婦にとりいりはじめた。お客の方へも手を廻して、関さんをすつかり悪者にしてしまつたのである。関さんくさつて、子供みたいに、家出をして、四五日行方をくらますなどといふ椿事である。
 そのうち親爺もKさんの魂胆が分かり、Kさんの前身が、何の某の身内の何の某といふ人物だつたといふやうなことも分かつて、大いに慌てはじめた。親爺悄然として僕のところへ助力をもとめにやつてきた。事面倒と見ると、万事先生に委すのである。先生そのころ碁の方にいくらか覚えができたけれども、腕力に覚えがないので、大いに弱つた。
 この碁会所は、元来僕の大精神によつて、断乎賭碁を厳禁したので、松原署の特高係Tさんといふ会員までできたほどだ。ほかの碁席はTさんを敬遠するので行けないのだ。そこでくさつたのが、友禅の板場職人高野さんだつた。山本宣治の葬式の一番先頭に赤旗を担いだ威勢のいい人物だからである。「坊ちやん」を無学にしたやうな、正義派で、勇み肌の快人物だが、この碁会所の創設から肩を入れること並々でなく、宣伝のため
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