わなければならない定めになっていたのです。戦前まではそうでした」
一村すべて剣を使うということも架空の話ではなかったのである。樋口家の馬庭移住は天正のころ、織田信長のころだ。今から三百七八十年前である。したがって附近の三碑ほど大昔からひらかれた里ではなかった。しかし、樋口家が土着した瞬間から、この里は剣の里であった。野良を耕す人々の剣を使う里。そして今もそうだ。立川文庫の夢の里は昔そのままの姿で実在していたのである。
名人又七郎
例年の一月十七日が樋口道場の鏡開きで、門弟すべて参集し、また客を招いて型を披露するという。つまり寒稽古の始まる日だ。その終るのが三月十七日で、まる二ヵ月の長い寒稽古だが、昔からの定めだという。要するに農閑期でもある。そして重《おも》だつ門弟はとにかくとして、一般の里人が剣を習うのはこの期間なのである。
関東平野の一端が山にかかろうとするところ。倉賀野《くらがの》から下仁田《しもにた》をへて信州の八ヶ岳山麓へ通じる非常に古い街道。この街道筋には上州の一ノ宮や大きな古墳なぞが散在して、いかにも太古からの道という感が深い。
この街道をちょッと行って、小さな丘の陰、こんなところに道があったかと思うようなところで街道をそれる。するとキレイな川が流れていて、その川の向う側が馬庭なのだ。竹ヤブが多い。
道場の門をくぐると村の子供たちが群れている。そして門内にアメ屋、フーセン屋、オデン屋、本屋、オモチャ屋など七ツ八ツの露店が繁昌しているのである。全然村のお祭りである。道場びらきなぞという厳めしさとは全く縁のない村祭りの風景であった。それも門前でなしに門内に店が並んでいるのだから、田舎の子供の園遊会のようなものだ。道場がせまいので、庭で武技を行うのである。
念流の伝授以来二十四代もうちつづいて、里人すべてを門弟にしている旧家だから、大家族、大教祖の大邸宅を想像するのは当然だが、立派なのは道場だけで、実に質素なただの百姓屋である。ただの中百姓屋だ。
何百年の武の伝統と里人すべての尊敬をうけながら、終始一貫里人と同じ小さな百姓屋にただの百姓ぐらしをしてきたとは痛快じゃないか。これこそは馬庭念流というものの真骨頂であろう。まさに夢の里だ。道場以外は百姓用のものばかりで、どこにも武張ったところがなく、威厳を見せているところもない。痛快なほど徹底的にただの百姓屋である。村の旦那の風すらもないただの百姓屋であった。しかも、それにも拘らず、村をあげてのお祭りだ。門弟や里人の念流と樋口家に対する態度は、まさしく教祖や神人《しんじん》に対するそれで、村の誇りであり、彼らの生き甲斐ですらもあるように見うけられるほどだ。実質的にかくも大きな尊敬をうける教祖や神人がこんな質素な住居にいるのはこの里だけのことであろう。
樋口家は木曾義仲の四天王樋口次郎|兼光《かねみつ》の子孫である。次郎兼光の妹は女豪傑|巴《ともえ》だ。もっとも、樋口の嫡流は今も信州伊奈の樋口村にあって、馬庭樋口はその分家である。
足利三代義満のころ、まだ南北朝の抗争のうちつづいたころであるが、奥州相馬の棟梁に相馬四郎|義元《よしもと》という剣の名人があった。この人が後に入道して念和尚《ねんおしょう》と名を改め、諸国を行脚して剣を伝えて歩いたが、行く先々で鎌倉念流、鞍馬念流、奥山念流なぞと諸国に念流を残し、最後に信州伊奈の浪合《なみあい》に一寺を造って定着し、ここで多くの門弟に剣を伝えた。この浪合で印可皆伝をうけたものが十四名あって、その一人に樋口太郎|兼重《かねしげ》があり、これが馬庭念流の第一祖である。
三世のころ、上杉|顕定《あきさだ》に仕えて上州|小宿《こしゅく》へ移ったが、八世の又七郎|定次《さだつぐ》のとき馬庭へ土着し、ここから百姓剣法が始まるのである。今は二十四代である。
したがって、馬庭念流という独特のものは八世又七郎に始まると見てよい。彼はまた馬庭念流二十四代のうちで最も傑出した名人でもあったようで、念流本来の極意書が樋口家に伝わるようになったのも又七郎の時からである。
又七郎が馬庭に土着して道場をひらいたころ、高崎藩に村上天流斎という剣客が師範をつとめていた。どっちが強いかという評判が高くなって、ついに藩の監視のもとに烏川《からすがわ》の河原で試合することとなった。天流斎は真剣、又七郎はビワの木刀で相対したが、又七郎の振下した一撃をうけそこねて天流斎は即死した。天流斎のうけた刀と、又七郎の打ちこんだ木刀とが十字形に組んだまま天流斎の頭を割ってしまったので、これを十字打ちと伝えている。ちょうど宮本武蔵と佐々木小次郎が巌流島で勝負を決したのと同じころの出来事である。
又七郎は諸方から仕官をもとめられたが一切拒絶して土に親し
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