扱いを受けてもいるのである。ところが馬庭念流はそうではない。甚しく別格に扱われているけれども、常にひそかな親愛をもって扱われているようで、いわば万人がそのふるさとの山河に寄せる愛情のようなものが常にこの流派にからんで感じられるような気がするのである。馬庭念流を使う敵役なぞは出てこない。それを使うのは善良温和な百姓なのだ。頭ぬけた使い手には扱われていなくとも、どんな剣の名人もこの村で道場破りはできないのだ。
村の農民によってまもられ伝えられてきた剣法。日本の講談の中で異彩を放っているばかりでなく、牧歌的な詩趣あふれ、殺伐な豪傑の中でユーモラスな存在ですらある。
私は馬庭という里は架空の地名ではなくとも、百姓剣法馬庭念流はいわば講談作者のノスタルジイの一ツで、立川文庫の夢の村にすぎないのだと思っていた。まさに少年時代の私にとっても愛すべく、また、なつかしい夢の村であった。そして、夢の中でしか在りえない村だと思っていたのだ。
たまたま私は一昨年から上州(群馬県)桐生に住むようになり、郷土史を読むうちに、馬庭が実在の地名であるばかりでなく、馬庭念流が今も尚レンメンと伝えられ、家元樋口家も、その道場も、そして剣を使う農民たちも、昔と同じように今もそうであることを知って茫然としたのである。
今の呼び方では群馬県|多野《たの》郡入野村字馬庭。字である。戸数は二百戸ほど。高崎から上信《じょうしん》電鉄でちょッとのところである。
上州には今から千何百年前の石碑が三ツある。多胡碑《たごのひ》、山上碑《やまのうえひ》、金井沢碑と云って、いずれも歴史上重要なものであり、私にとっては一見の必要あるものであったが、呆れたことにはこの三碑がまるで馬庭をとりまくように散在していた。多胡碑の里から火事がでて馬庭へ飛び火したこともあるそうだ。馬庭の旧家|高麗《こま》さんは頭をかいて、
「隣り村の火事と安心して見物にでかけた留守に私の家の屋根が燃えはじめていました。上州のカラッ風は油断ができません」
そして、こう教えてくれた。
「私の父も念流の目録まで受けた人ですが、私は剣は使いません。馬庭で一番古いのが私の家で、その次に樋口家が移住して、ごらんのように隣り合って家をたて村をひらいたのだそうですが、そんなわけで私の家だけは無理に剣を習わなくてもよいのだと父が言っていました。他の家は必ず剣を習
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