わりだすのは不可能ではなく、公約数の算定法は相当に合理的でもありうる筈のものであろう。
 私は易断には不案内だが、人間を性格的に観察することは文学をする者にとっても甚だ重大なことであるから、観察ぶりも似たようなものだろう。
 ただ文士は易断する必要はない。結論をだす必要はないし、ここに二者の相違があるのだが、易者とちがって、文士は結論がだせないのである。
 まず文学上の性格判断というものは、性格に先立って、万人は同じもの、同じ可能性をもったもの、というのが常識として潜在しているものである。
 性格は、可能性の多少に属しているだけのものだ。可能性の多少は、その人の一生に、必然的に現れてくるものではなくて、環境や偶然に左右され、諸条件に相応するものだ。
 犯罪の弁論だの判決というものも、ここまでは文学同様常識であり、その上に成り立っているものであろう。
 文学は可能性の探求である、と一言にして云いうるかも知れないが、文学にもいろいろ流儀があって、性格の可能性を探す人もあろうが、むしろ人間の可能性ということの方が大事であり主流と申すべきであろう。
 性格の可能性ということならば、それが環境や偶然の諸条件に支配されるにしても、性格に内在する可能性の多少が、諸条件に積極的に作用する力もあって、そのような必然的なもの、既知的のものは、文学上の探求と関係しないものである。医学や法律なぞが、それに応ずる薬とか、療法とか、罪の裁定とか、をもとめる土台となるかも知れぬが、文学は探求でもあるが試みでもあり、薬の量を定める土台にもならないし、それ自体に解決を持たないのが普通である。
 平凡人に諸条件がかかった場合――むしろこの諸条件に重きがおかれる。
 性格に重点をおけば、可能性の多少ということは、肉体的に云えば、まア病気の多少、病人をさすことに当るかも知れん。
 文学の方は平凡人、つまり、普通の健康体がむしばまれて行く可能性、いかなる条件があって、かかる病人となるか、その社会悪というものが考えられ、病人の対策や病気の治療が問題ではなくて、諸条件とか社会悪というものへの反撥や、正義感が、文学の主たる軸をなすもののようだ。したがって、人間自体に関する限り、文学には解決や結論がない。いつまでたっても、常にあらゆる可能性が残っているだけの話なのである。
 だから文士は、人間の性格についての心得は
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