の雰囲気になんの実力もなく、頼りないことを身にしみて知っていたであろう。
 この王国は王様が死ねばもはやどこにも存在しなくなるものである。文士や編輯者の間には文士の女房について「亭主に先立つ果報者」という金言がある由である。つまり、亭主たる文士が生きていて盛業中に死んだ女房は、恐らく亭主たる文士の死よりも盛大な参会者弔問客にみたされ、キモの小さい人間どもをちぢみあがらせるぐらい大葬儀の栄をうけるであろう、という意の由である。果して然りや、真偽の程はうけあわないが、それほどではないにしてもとにかく王様が生きてるうちはそんなものだ。しかしこの金言の真意はむしろそのアベコベを云うのであろう。王様が死んだあとの女房は全然誰も寄りつかず、寄りつくとすれば何か目的のためであり、むろん葬式なんぞに誰も来てくれやしない。そういう意味を云っているのであろう。
 塩谷先生がこういう金言を身にしみて考えられるようだと菊乃さんも死ぬ必要はなかったであろう。
 ところが、先生はあまりにも無邪気すぎますよ。門下生たちの集りの、自分が生みの親であるが、菊乃さんが育ての親で、一同にしたわれていたなぞと、タワイもないことを仰有っておられるが、そのような王国の雰囲気のたよりなさを身にしみ知る者にとって、このような先生の無邪気さは、たよりなくもあるし、時に甚だ憎らしいものであったと思われます。
 しかも先生は、越後長岡の賤の女がその旧藩主の同族たる殿様に招かれるに至るとは名誉この上もなく、死して瞑すべきである、というタテマエであるから、賤の女の心事が分らぬにしても、論外である。
 先生自身は菊乃さんを得て老後の切実な生活問題も解決して、解決以上に大満足を得て、安定し、たのしかったであろう。門下生にとりまかれて一国一城の主を自覚し愛人に美酒を献じ、愛人の三味の音をたのしみ愛人の手拍子に興を深めつつ詩を吟ずる。また殿サマに招かれて恋人を同伴、謡曲のお相手となる。それで満足、先生自身はどこにも不足はなかったであろう。
 先生の満足が深く無邪気であるほど、菊乃さんには堪らなかった筈である。菊乃さんにだって、切実な老後というものがある。その切実さは恐らく先生以上であったにきまっている。なぜなら先生は菊乃さんが居なくとも門下生にかこまれてともかく王様でありうるが、そういう約束は菊乃さんの老後には皆目保証されていない
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