て反証をあげても、それを無力にする理由となりうる。
 しかし泥足の証人がないということは、彼らが泥足であった証明にならないだけのことで、彼らは泥足でなかった、という反対の事実を証明する力はないのである。またタタミの足跡を消したという証拠があれば、足跡があったという反対事実を証しうるが、消したかも知れぬとだけでは、なぜ足跡がないかという証明にならない。ただ要するに、そこに足跡が残らぬ筈だという被告の言葉は一方的でそれを証明する力がないということであり、裁判官の心証が彼らを犯人とみる方に傾いておれば、彼らの反証は無力であると認定せられるであろう。
 しかし、泥足の証人がないということは、泥足であったという被告の主張とその証拠の力に於て五分五分に対立しているだけのもので、泥足でなかったという確実な証人がでなければ本当に否定する力にはなり得ないわけだ。裁判官の心証によって、証拠の力が五分五分の一方へ傾くのは当を得たものではないね。しかし、浮浪者や窃盗常習者がヤミ屋を殺したというような極めて有りそうな事件では、被告に不利な心証の傾斜が加わり易いのは裁判官も人間であるからには有りがちなことで、誰しもオレは別だと云いたいでしょうが、却々《なかなか》もって。とにかく大いに反省用心して、常に慎重に傾斜を正しく考察を新にするような心構えがガッチリしていても傾斜し易いのが人情でしょう。

          ★

 小林大内が犯行を否認して自分らの当夜の行動としてのべている事柄の中から、犯人であるかないか、かなり明確に定めうるカギはあったと思います。彼らはその晩、農家から一俵盗みだし、袋に詰めかえて被害者宅へ持参したといい、結局、附近にすてられていた米のつまった袋が容疑の端緒となったのだそうですが、盗まれた農家も、俵の米を詰めかえた場所も実在しなければならぬ筈であるし、その反対に、被害者宅の貯蔵の米が何者かによって詰めかえられて運びだされた形跡があったか。最初の現場検視が厳重に細部に行きとどいていて、彼らの供述に応じて直ちに事実との照合が厳密になされたなら、彼らが被害者を殺した犯人ではない、という証明はそこからは直接に得られないにしても、盗んだ米を袋につめかえて売るために持参したという供述の真偽は得られたであろう。
 そこまでの供述の真偽が決定すれば、すでにそのときからタタミの上の足跡の有無が中心的な問題となった筈で、土間へふみこんで被害者の屍体を発見しておどろいてすぐ逃げた、という供述の真偽が、犯人か否かを決するものとして調査のヤマとなるべき筈であったろう。しかるに、最高裁への上告に際してようやくこのことが被告の不満としてもらされているのですが、それは逮捕直後の取調べの発端に於て手落ちがあったことを示していないでしょうか。
 こうして真犯人が現れた以上はすでに明白でしょうが、犯人でなかった二人が逮捕されるや直ちにやりもせぬ犯行を自供することは有りえず、一俵盗んでつめかえて被害者宅へ持参して屍体を発見して逃げたテンマツを先ず第一に述べたり言い張ったりした筈でしょう、その供述に応じて取調べの発端から真偽の調査がなければならぬ筈でしたろう。そして、逮捕直後なら、米の盗難も詰めかえ場所も、その真偽は立証できた筈であろう。二審に至っては、もうムリだ。事件直後でなければ立証できない性質のもので、彼らは実に気の毒と申さなければなりません。
 要するに事件発生直後の現場の調査が行き届いておって、容疑者の逮捕直後に彼の供述の裏づけをもとめて正確メンミツに供述の真偽を実地に照合しておれば、まず誤審の第一段階はさけうる性質のものだと云えましょう。この事件には、その重大な第一段階にメンミツな実証作業を欠くところがあったようですね。
 さて、二審に至ったときに、一審の自白をひるがえして、無実であると主張して新しい供述をしたそうですが、もうその真偽をたしかめることはできない。わざと今ごろになってから真偽のたしかめようのない供述を行ったという風に悪く解釈もできるけれども、そういう仮定が慎しむべきであることは云うまでもなく、第一審に無実の主張やその証拠となるべき供述が行われなかったのはナゼであるか、徹底的に追求がなさるべきであったろう。そして追求の結果として、逮捕直後にその供述が行われたことがあったが、その裏づけの調査に欠くるところがあって、今となってはその真偽を明かになし得ない。そういう事情がハッキリしたとすれば、第二審の今日に至っては時日を経たためもはや真偽立証の道がないが、立証不能ということは、彼が犯人であるかないかの証拠としては五分と五分で、彼の供述を否定する事実なき限り立証不能の責任は容疑者の方にはないのである。したがって、他に被告の犯行を決定的とする証拠がない限りは
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