、実にこんなに夥しく重大な状況証拠が一人にだけ重なっているのは珍しいような事件でした。ところが、そういう珍しいほど多くのシッカリした容疑事実にも目をそむけて、人情的見解や感傷につくという、理につくよりも情につきたいという、私はそういう俗情の動きが何となく言論無用という暴力団のように怖しく思われて、次第にたまらないような気持になって、その結果が思いきって親殺しを論断するという向う見ずな実行に至った理由の一ツでしたろう。真理はどうなるのでしょうか。俗情が真理を否定して、その不合理に気付かないばかりでなく、俗情にそむいて真理をもとめ理につくことが冷酷で、人でなしの所業で、悪行であり、情につく方が善意の人の所業で善行である。そういう俗情が国論となったら怖ろしいことになるであろうが、しかし、実に国をあげて俗情につきたがるような、そういうキザシなきにしもあらずでしょう。その俗情の横行に堪えられなかった意味があるのですが、とにかく公の裁判に先立って、息子の父母殺しを論証するという、それは私にとっても大変な決意を要することでしたが、しかし一方に、それは又あまりにも事実がハッキリと物語っているのですから、それに目をそむける多くの人々の方がフシギであり、ウソの犯人を論断する危険がないかという不安に苦しむことは案外少なかったのでした。しかし、むろん、他に犯人がありうるかどうか、考え及ぶ限りは考えつくした上で、その怖れがないようだという確信があって、やったことです。殺人事件の犯人をその逮捕前に論証して発表するということは、私のようなガラッ八でもよほどの確信と決意がなければできることではありません。警官や裁判官のように一人の罪を公に断ずるものではないとはいえ、ある息子を両親殺しの犯人と断じて発表してマチガイであった場合には、筆を折る覚悟はいりましょう。可能なあらゆる細部にわたって考察を重ねた上で、彼の容疑をくつがえしうるものがありえない、他の何者も犯人ではありえない、という確信が他のいかなる証拠によっても疑われる余地なく納得できなければ、とてもやれるものではありませんね。
 しかし、伊東の殺人事件の場合には、甚だ多くの手がかりがあって、状況証拠だけでも(物的証拠は当局の正確な発表がないから分りませんが)抜き差しならぬ性質の容疑を証明しておって、そのほとんど全てのものがあげて一人の容疑のみを深
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