が一人の病人を診察するにも長い観察や実験が必要でしょう。まして私は医者ではないから医学的なことは云えない。文学者として人間的に取扱うのがタテマエであるから、どうも、こまったね。編輯者曰く、お前さんも斯界の古老であるから(というのは病気を診察した古老じゃなくて診察された古老だということさ)経験を生かして、大いに語るべきウンチクがあるでしょう。キタンなく談じていただきたく存じます。ハハハハ。空虚な笑いだね。つまりはこの編輯者はキチガイなのさ。自分の不安をまぎらすために私をからかうという典型的な分裂状態にいるのだね。いまに入院するよ。そう遠くない。
 さて、この山口さんのようなのを逆行性健忘症というのだそうだが、普通は頭を強打するというような外部からのショックでなるものだそうだ。山口さんのは神経的、もしくはヒステリー的とでもいうのかね。心因性と手記にあるね。「遁走」などと云ってる学派もあるようだ。現実をのがれ、忘却の中へ遁走したいような願望は誰の心にもあるはずだ。人間は悲しいものさ。
 公衆電話の中で意識がかすんだそうだ。最近の某夕刊紙に別の婦人患者の例がでていたが、この婦人は路上でメガネを
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