亭主たる者は彼女をいかにモテナスべきであるか? かのイマヌエル・カント氏すら純粋理性を哲学的にはモテナスことができても、すでにその細君には散々だったんだからね。わが哀れなクリーニング氏がいかにモテナシに窮し、また、日夜モテナシに腐心するところがあったか。女とは何ぞや! 彼氏はついにかかる大いなる疑問についてすら数々の不可決[#「不可決」に傍点]の思索を重ねたかも知れん。
 哀れなクリーニング氏よ。御身も結婚前は敵がそれほど純粋理性的存在であるとは知らず、軽卒にも、また、楽天的にも、シャッポもかぶらず、アロハをきて、かの怖るべき理性的存在と一しょに東劇観劇とシャレたそうだね。時は昭和二十三年盛夏、アロハは流行の花形だものな。マーケットのアンチャンだけがアロハを着ていたわけではないさ。判事だの大臣だの文士だのはアロハを着なかったとはいえ、市井の若者にとっては流行は第一の美であるのさ。老人どもは常に彼らの若かりし日の流行を追想して現実に対しては悪罵とクリゴトをのべ、しかし、健康なる若者は常に彼らのみの美や流行を一身に負うべく、人間の歴史ある限り、市井の若者とは常にそういうもんじゃね。アロハそのものが美であるか、ないか、そういうことと問題は別個じゃよ。
 たしかに彼氏は軽卒であり、楽天的でありすぎた。しかし、アロハをきるとはいえ、マーケットのアンチャンとちがって、彼はそれまで女というものを知らず、金瓶梅もチャタレイ夫人すらも読破した形跡がないのだね。結婚初夜に新妻をモテナス何らの技術にも不案内であったそうだ。
 中山しづ女の答弁書に曰く、
「羽山はなぜか夫婦の行事をなさず特に新婚の楽しみなるものをなさしめなかった。しづは処女にして、夫婦の行事がいかなるものか、いかにして行うかを知らず、自ら要求する術も知らず、むしろこれらの事柄は男子たる羽山が積極的に指導し愛撫すべきことは争うべからざる公知の事実である。それにも拘らず原告は故意にそれらの指導をなさず、温く抱擁することもなく、いわば木石の如き態度で新妻に接しもって処女を犯した」(下略)
 名文だね。争うべからざる公知の事実だ。そうだ。争っちゃア、いけねえかな。パンパンを取りしまるとは何事だア! チャタレイ夫人を起訴するとは何事だア! だから一人前にアロハなんか着やがってるくせに新婚初夜に木石じゃないか。もって処女を犯す、か。どうも実に、カストリ雑誌の唄い文句じゃなくて、レッキとした訴訟の答弁書なんだからね。新婚初夜の行事に、処女を犯すという表現は、カストリ雑誌以外ではチト無理でしょう。もっとも、理窟で云えば、初夜は処女を犯すものには極っているが、そのために大目玉をくろうことは、きかなかったね。
 こういう世界的な大文章で答弁するというのは、要するに、相手を反撃する事実自体に反撃力がそなわっていないせいだろうね。要するにさ。原告たるかのアロハはあまりにも経験深く老練にして、初夜に処女たる被告を混乱懊悩せしめ、神経質にして潔癖なる被告の信頼を失うに至りたり、というような文章だったら、チットモ大文章というものじゃなくて、とにかく語られた事実の中に真実の力量がこもっているのさ。
 アロハ氏の曰く「時に媚態を呈して奥サンに懇願した」とね。アッハッハ。しかし、アロハ氏の苦心察するに余りあり。席を別にして板の間に寝られたり、彼氏の新婚生活は日夜に不可解の連続で、まったくどうも神経衰弱気味にもなろうというもの、彼氏が慰藉料を請求したい心境になったのは、同感せざるを得ないのである。
 しかしさ。判事氏の云う如く、たしかにアロハ氏の童貞には値段がないだろうね。失われた童貞にもしくは童貞を失ったことの精神的損害に慰藉料を請求したって、元々値段のないものにその失われた損害を払って貰えないね。しかし、童貞を失ったこととは別の精神的な損害に対しては、どうだろうね。以上私が大ザッパに述べたところからでも、アロハ氏の方が被害者の立場にありと私は見る。新婚に破綻した以上、夫婦どちらもその悩みの切なさは先ず同格であるにしても、被害者たるの立場はアロハ氏なるべしと私は見る。この精神的な損害が慰藉料になるか、どうか、これは問題のあるところだろうと思うが、私は現行法律の判例を知らないから、法的に何とも判断はできない。
 判決によると、訴訟費用はこれを十分して女がその一だけ負担し他の九は男が支払うとあるが、私は精神的に被害者たる原告に慰藉料をやることができなければ、訴訟費用はまるまる女に負担させてせめてツグナイとさせるね。アロハにその十分の九まで負担させるのは残酷ではないかねえ。私は被告たる純粋理性的存在よりも、原告たるアロハ氏の方に甚しく多くの同情すべきものを認めるのである。
 しかし市井に、また農村に、こういうチグハグな結婚の
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