へ行った時、原告は帽子もかぶらず、アロハシャツをきてきたので、いやであったとかいっていました。
八月の終頃、羽山が猛烈な下痢をおこし、しづは感染してはまずいと思い、ジュウタンをしいて別に床をとって、寝たようですが、しづに夫婦関係はどうかとたずねたところ、ふつうにつとめているといゝ、そんなことは聞くものではないといわれました。しづは神経質で気に入らない時は私の顔を見るのもいやだというほどでした。
羽山が家を出て後、吉野氏と羽山が一しょに参り、吉野氏は私を馬鹿野郎よばわりし三十万円出せといゝました。
羽山留吉(当時三十歳)の供述
結婚の当日、夫婦の交りを一回だけ致しました。その時、しづは男女の交りの経験はないようでした。また交りを結ぶに当って不同意を示したことはありませんでした。私はいままでに異性と関係したことはございませんが、夫婦の交りはできました。
二日目しづは身体がわるいといゝ、床は二枚しき、交りを要求すると被告はさけました。(中略)私は父は亡く、母はあります。
財産はありません.中山の方には財産もあり、たしか、山林があると聞いていました。しづが私の方へ来ればいつでも引きとります。
中山しづ(当時二十九歳)の供述
見合いの時、同じ商売だったので、相手は何もないけれど、結婚しようと思いました。
挙式当日、羽山の義兄の家へ行ったところ、先方は少し酔っていて、
「男のバカと女の利巧はちょうど同じだ、生活力では男にはかなわないのだから、夫を大事にしろ」「亭主の好きな赤烏帽子《あかえぼし》という意味を知っているか」などといわれ、あんな風に私が侮辱されても、羽山は何ともいってくれないのかとさびしく思いました。
結婚の最初の日は夫婦の交りをしました。二日目は一緒にねましたが、体の具合が悪かったので夫婦の交りは断りました。出血がひどく、はじめは夫婦の交りのためであると思っていましたが、それが五日ばかりつゞきましたので、月のものだとわかりました。私はそれまで男の人と交りをしたことはありません。私が別室にねたのは五日目位かと思いますが、それは羽山が下痢をしていたからです。(中略)仲人の新堀の奥さんがきて「羽山を好きかどうかそれだけ聞かしてくれ」といわれた時、私はこんな状態では愛情がもてないといゝました。羽山と話をもどすことは全然、考えていません。
判決
「
前へ
次へ
全20ページ中2ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
坂口 安吾 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング