安吾巷談
教祖展覧会
坂口安吾
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)碧巌録《へきがんろく》
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#「奚+隹」、第3水準1−93−66]
/\:二倍の踊り字(「く」を縦に長くしたような形の繰り返し記号)
(例)チョボ/\と
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私は先般イサム・ノグチ展というものに誘われたが、熱心に辞退して、難をのがれた。展覧会の写真を拝見して、とうてい私のような凡骨の見るべきものではないと切に自戒していたからである。
「無」というのが、ありましたネ。私は写真で見たのだが、人間の十人前もあるように大きい。手の指が二本で輪をつくッているように見える。
無門関か碧巌録《へきがんろく》の公案からでも取材したのかナ。なんしろ「無」とあるから。凡骨はツマランことを考えるよ。しかし別段、花をいじっているわけではない。真言の印をさがすと、これに似たのがあるだろうが、イサム・ノグチ氏は米国に盛名をはせる人、アメリカの人を相手に真言の奥義を解説しようということは考えられないナ。奈良の大仏の片手にくらべると、こッちの方が大きいや。
「若い人」というのが、ありましたネ。鳥が背のびして、火の見ヤグラへ登って行くように見える。万年筆を立てるには、都合がわるいし、シャッポかけにも具合がわるい。すると、タダのオモチャかな。独立した芸術として、シゲシゲ鑑賞しろたッてムリです。何か実用の役に立たなくちゃア、どうにも存在の意味が解しかねる。もっとも、これを机上に飾って、何故にこれが「若い人」であるか。その謎々を解けという仕組みのオモチャなら智恵の輪よりも難物だ。しかし、智慧の輪はいつかは解けるが、こッちの方は永久に解けそうもないや。
イサム氏の父君は詩人ヨネ・ノグチだそうである。詩魂脈々として子孫に霊気をつたえているに相違ないが、イサム氏に限らず、当今の超現実的傾向の源流をツラツラたずぬるに、元来詩人の霊気から発生した蜃気楼であると見たのは拙者のヒガメであろうか。
私がはじめてこの霊気に対面したのは、今から二十三年前にさかのぼる。フランス大詩人ステファン・マラルメ師の「クウ・ド・デ」という詩集を一見したときに、魂魄空中に飛びちり、ほとんど気息を失うところであった。
大判の詩集でした。ちょうど「アサヒグラフ」ぐらいの大きさだったと記憶するが、左の片隅にチョボ/\と詩がのってると思うと、突如として右下に、字が大きくなったり小さくなったり、とんだり、はねたり、ひッくりかえッたり。弟子のポール・ヴァレリー師は、マラルメ師は言葉の魔術使であると言っているが、言葉の魔術とはこういうことを言うのかなア。これは印刷の奇術ではあるが言葉には関係がない。まして詩の本質に関係ありとは思われないのである。
マラルメ師を第一代の教祖とする。ヴァレリー師を二代目、三代目は日本にも優秀なる高弟が一人いて小林秀雄師、これがフランス象徴派三代の教祖直伝の血統なのである。
私も二十三年前には大そう驚いて、これが分らないのは私に学が足らないせいだ、大いに学んで会得しなければならん、というので、教祖の公案を見破るために奮闘努力したのである。
ヴァレリー師は教祖マラルメ師について、かなり多くのことを語っている。私はそれを飜訳したこともあった。この中で、今もって私の腑に落ちないことが、一つある。自分で飜訳しておいて腑に落ちないとは失礼な話であるが、元々学がないところへ辞書をテイネイにひくのがキライという不精な天性があって、ママならないのである。
ヴァレリー師が教祖マラルメ師の書斎を語って、一歩と三歩の小さな部屋、と云っているが、原語は私が馬鹿正直に訳した通り、PAS というのです。一歩と三歩じゃ小さすぎらア。本当かなア。もっと正しい訳語がありそうなもんだなア、と思ったが、しらべるのが面倒くさいから、一歩と三歩の小さい部屋。部屋の大きさを歩幅ではかるというのもアンマリ見かけないことだと思ったが、なんしろ教祖の書斎である。それを語るのも教祖二代目、こッちも教祖五六代目のツモリで、ごまかしてやれ、知らない奴は喜んで感心すらア、というような悪いコンタンで、今もって訳者は腑に落ちないのである。
とにかく、教祖は格別なものだ。一歩と三歩がちょッとは意味がちがっていても、よほど小さい書斎に相違ない。教祖はそこに鎮座して、一字を大きくさせたり、次の一字を小さくさせたり、とばせたり、ひッくりかえしたり、クロスワードパズルよりもモット困難な事業に没頭していたのであった。
私はついに教祖の公案を見破ることができなかった。そのハライセに、かかるものは詩にあらず、芸術に非ず、と断定した。そして今日に至っている。のみならず、今日に於ては、この教祖を邪教の教祖と見なしてすらいるのである。邪教といっても、教祖であるからには、立派な片言隻句も数多く残しているが、邪教であることには変りがない。
シュルレアリズムというのは、前大戦後にとびだした畸型児であるが、文学の方ではアンドレ・ブルトンなどが旗持ちで、彼はシュルレアリズムのマニフェスト(宣言)というものを書いている。大判の、ちょッと色の変った美本であった。茶の地に、美しいコバルトで題字がぬいてある。それが大そうキレイだったので、私たちの同人雑誌「青い馬」というのへ、そッくり衣裳を拝借したが、日本の印刷ではフランスのような美しいコバルトがでないので、あんまりパッとしなかった。しかし、拝借したのは装釘の衣裳だけでシュルレアリズムにかぶれていたわけではなかった。
このマニフェストというのはコケオドシの実にツマラヌものであった。彼の代表作には「ナッジャ」という小説があるが、これもツマラナイ小説である。恋人とアイビキに行く荒涼たる海岸の名をアンゴ ANGO という、それだけが私のハラワタにしみた全部であった。フィリップ・スウポオがいくらか小説らしいものを書いているが、シュルレアリストの小説や詩で、後世に残るものは、まず、あるまい。
彼らはすでに相当な年輩であるが、今日でも、フランスのシュルレアリストは大いに教義をひろめるべく悪戦苦闘しているようである。しかし所詮、彼らは裏街の小さな教祖であって、表通りへ進出し、山上で垂訓するような大教祖には、とてもなれないと私は鑑定している。
★
私は二科会には友人もいるし、好きな画家もいる。戦争以来、終戦後の今日に至るまで展覧会というものには御無沙汰していたので、あの二科会が、今日、こんな妙テコレンな数々の教祖と弟子に占領されようなどとは夢にも考えていなかったのである。
この前の戦争のあとにも、妙な展覧会が現れたことがあった。たしか、三科、と名乗ったと思う。今日の彫塑をさす意味の三科とちがって、今の二科会の更に進歩的なという意味ではなかったろうか。私は先日、この三科のことを友人にきいてみたが、記憶していない人々が全部である。すると私が会の名を記憶チガイしているのかも知れないが、村山知義氏などがこの会に所属していた筈である。
これがそッくり今日の二科会のデンで、もっと、物凄い。カンバスへ本物の靴を張りつけたりしている。
しかし、この会は線香花火のようにパッと消えて、たちまち跡形もなく失せてしまった。そして、芸術家として他の分野に残った人も、この謎々のような画論には固執しなかったようである。悪夢であった。
私は終戦後、はじめて今年の二科を見て、邪教に占領されたのは熱海の町だけではないということを痛感したのである。
独立した芸術品としての絵画はすでにここには殆ど失われている。建築の一部として、壁紙の代用品として見るにしても、安建築にしか向かないし、彫刻は帽子カケや傘立やイスなどに向きそうでいて、それもごく品の悪い安物向きである。まア、一番向くと思ったのは、ビルデングに空襲よけの迷彩を施す場合に適切だと思ったが、すでに空襲というものはレーダーにたよって、視覚にはたよらなくなっているから、全然使い道がない。
私が目方ハカリキ、上へのッかッて一銭いれると目方が現れる、あのハカリの新式のデザインだなと思った彫刻には「婦人像」と思いがけない題がついている。毀《こわ》れた椅子だナと思ったのには「クチヅケ」という大変な題名がついていましたネ。題名を見破ることは至難中の至難事である。
題名だけを見て、絵を見ない方が、むしろ多くの美しいイマージュを描くことができる。絵を見るとナンセンスで、ただウンザリしてしまう。
「エピローグ」
なんのエピローグだか分からないが、フロシキの模様にはやや手頃かも知れないという絵。
「神々の飜訳」
「こまった」(会話に非ず。どちらも題名也)
イヤ、見せられる方がモットこまる。
「飛ぶ」
なるほど、飛んでることだけは分る。
「着物だけは返して下さい」
オレにたのんだってダメだ。そんなこと、この絵はたのんでやしないよ。題だけ勝手にたのんでやがる。メクラのフリをして、どうぞ一文という手はあるが、こッちはもッと悪質という絵。
「煙突食う魚」
「かまれた魚を呑む魚」
見れば分らんことはない。因果物の見世物小屋の看板向き。
「田園交響楽」
一人の老農夫の肩に女の子が乗っかってオッパイをだして手をひろげている。腰に猫がのッかり、その上にトンビだかタカがとまりその又頭に小鳥が一羽。イヤハヤ。ベエトオベンの音楽をきいて、芸術がどんなもんだか、考え直してくれないかな。
「風蝕」
黄土地帯か氷山か。この作者が風蝕という言葉を知っていたという意味の絵。
「信仰の女」
ハダカの女の子がいて、腰のあたりから空中へ煉炭がゾクゾクと舞い上って行くぞ。電気もガスも自由に使えるようになったから煉炭を昇天させようというのかな。イヤイヤ。又、戦争があるようだから、神の力で煉炭をシコタマ貯蔵しましょうという念力の絵かも知れない。
「青春」
双子の大根か蕪《かぶ》かと思うとオッパイだ。オッパイが空をとんで、手がもがいてる。小さい太陽、蝶もとんでる。このオッパイがお寺の吊鐘よりも大きい。絵具代が大変だナア、ということをシンミリ考えさせる絵。
「虚無と実存」
「芸術哲学」
彼らは教祖代理はつとまらない。せいぜい指圧の出張療法をしている最中のところで、その説教はチンプンカンプン、誰も分ってくれない。絵具代をだしてくれたのは誰か、ということが主として気にかかる絵。
「森の掟」
この中に何匹の動物と人間が隠れているか一生懸命に探しなさい。馬だか狼の顔にチャックがついてるのは、当った人に、中から懸賞金をだしてあげる、というツモリにしてくれ、というような意味で見てもいいじゃねえか、そうだ、そうだ、という絵。
「漁夫の夢」
真ッ赤な女の大きな絵。××火災保険賞が授与されているのは、赤い色に対する当然な報酬であるということが心ゆくまで分る絵。
「執着獅子」
帯の模様には、雑であるが、間に合うかも知れん。しかし、どうも、雑であるな。
「白蛾」
たしか白蛾という支那料理屋があった。イヤ、博雅かな。どッちでもいいや。一尺もある緑発と紅中とパイパンがかいてあるよ。白い蛾も押しつけてある。ハダカの女が悩んでいるし、ラジオもあるよ。
「私はこんな街を見た」
そうか。そう言われれば仕方がない。ウソツケ、と怒るわけにもいかないからナ。
「詩抄千恵子恋」
「春のめざめ」
「チャタレイ夫人」
あんまりハッキリ云いなさんな。題だけは分ったが、しかし、そんなもんじゃないでしょう。
「群鳥の夜」
「鳥を飼う男」
「※[#「奚+隹」、第3水準1−93−66]と料理人」
第一ヒントを与えたから、よく考えて見てくれ、という絵。
以上はザッと、まだ絵の体裁をなしている方かも知れない。このほか数十点、黒い色と白い色がぬたくッてあるだけ、製図の線がひいてあるだけ、牛の骨があったり、火星
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