るのだけれども、いい記録はでていない。古橋の短水路の記録は四分三十二秒六で、マーシャルの二十九秒五には相当のヒラキがある。記録の好きな日本水聯流に云えば、マーシャルの二十九秒五が最高記録になるのだが、こまったことに、日本水聯は記録好きでも、短水路の記録はキライで、手前勝手に長水路に換算してしまうのである。
しかしながら、レースというものは、せりあいにあるのである。決して単にタイムが相手ではない。タイムが相手なら、日米一堂に会してレースをやる必要はない。銘々各地で記録をとって、くらべ合って、オレが一番だ、アレは二番さとウヌボレておればすむことなのである。
日本水上聯盟は、この理を忘れている。タイムを比較していつも勝つツモリでいながら、クラブやメディカに負けたのは、せり合いの力で負けたのだ、ということを、本質的な問題として、考察することを忘れているのである。
キッパス監督はマーシャルを評して、千五百の出だしにあんなに速くては続かないのが当然だと云った。日米水泳界の先輩連は、これについては一言も語らず、この説に賛同するかに見えるけれども、実はさにあらず、出だしの四百ぐらいを四百レースのつもりで全力で泳いで、あとは流すことによって、さらにタイムを短縮できるという説が今まで多かったのである。つまりマーシャルは四百を四分四十三秒ぐらいで泳いでキッパス氏に速すぎると批難されているのだが、日本流に云うと、古橋なら四分三十四五秒で四百を泳がせて、あとを流させようというわけだ。これも一つの方法ではあるが、タイムということを考えて、せり合いを忘れている方法なのである。そして、力の強い選手の追いこみにあうと、負ける性格でもある。アルネ・ボルグのラップタイムはこれ式であった。千五百の最初の百を一分二秒ぐらいで泳いでいる。彼の場合は、二着と一分の差があり、追われる心配はなかったが、彼とマーシャルは体格や泳ぎ方にも、ちょッと似たところがあるようだ。
古橋を千五百に出さずに二百に出して、全世界のファン待望のマーシャルとの決戦を実現させなかった日本水聯は、対抗競技の意識が強すぎると云って、批難されたが、私はこれも、日本式タイム流のあやまった考えからだと思うのである。彼らの意識下には、水泳はタイムだから、せり合わなくとも、いずれはタイムが証明する、という鷹揚な気持があってのことだろうと思う。
しかし、レースはせり合いだという勝負の本質を知る者にとっては、古橋とマーシャルの今度のせり合いぐらい待望のものはなかった。マーシャルは意外に不振であったが、それは結果が判明してからの話で、マーシャル自身もレース前には好調のつもりでいた。古橋はすでに年齢で、これから降り坂になるかも知れない時であり、全盛の古橋と好調のマーシャルのレースというものは、両者これ以上のコンディションに於ては、あるいは不可能であるかも知れないと観測されないこともない。古橋は長距離王国の日本に於ても超特級品であるが、マーシャルは、日本独壇場の千五百で、はじめて日本の王座をおびやかす欧米の超特級品。欧米ではアルネ・ボルグ以来の二十数年ぶりの天才で、この種目では今後なかなかこれだけの選手が現れなかろうと思うのが至当な稀有な場合である。
この決戦を平然として棄権させた日本水聯の愚行は論外である。結果はマーシャルが不振のために救われたようなものではあるが、これだけの大レースを実現させるためには借金を質においても、というほどの、水泳の正しい教養が身についていれば、当然そうでなければならないことであった。つまり彼らの水泳家としての教養はコチコチの日本主義者ではあるが、紳士の域に至らぬことを明かにしているのである。レースはせり合いだという事の本質を知らないのである。そのために、過去の四百レースでいつも苦杯をなめていながら。はじめて古橋という国産のせり合いの特級品を持ちながら。
しかし、今度の日米競泳は面白かった。今までの日本は箱庭式のタイム派で、キレイに相手を離して勝つか、追いこまれるか、一方的で、自分が追いこんだことがない。今度に限って古橋が相手を追いこむ。すると、又、これに追いこみをかけるマクレンもあり、コンノもありというわけで、レースにこもった力というものは、すごかった。抜いたり、抜かれたりである。日本にも、古橋式のレース強い馬力型の選手がたくさん出てくれると国内競技でこれが見られるが、目下古橋一人であり、元々食物が粗悪なところへ、戦争このかたの欠食状態であるから、馬力型の特級品が現れる可能性は当分甚しく心ぼそい。しかし、レースをたのしむ者の身にしてみると、抜かれたり、抜きかえしたりの力、あの振幅の限度にみなぎる力の大きさ、美しさに目を奪われるのである。箱庭式のタイム派からは、こんな美を感じること
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