、善良ではあるが、性格的には、ひがみ屋で、女性的にひねくれたところがある。H氏が、又、最も女性的な豪傑タイプで、女性的な面が衝突し合っているのである。吉井君も編輯にはまったく無能で、どっちに軍配をあげるわけにもいかないが、部下を心服させることができないのは、H氏の不徳のいたすところである。
たのまれたからといって、特にたのんだ方に味方もできないが、H氏をよんで、
「あんたの部下はみんなO氏の弟子じゃないか。あんたがO氏のスイセンで編輯長になれば、みんながあんたを好意的にむかえるはずであるのに、心服させることができないのは、よッぽど不徳のせいだろう。そう思わんか」
「そう思う」
「あんた下宿の女(吉井君とジッコン)と関係してるね」
「そうだ。女房を国もとへおいてるから、こうなるのは当然だ」
「当然であろうと、あるまいと、そんなことは、どうでもいいや。自分の四囲にどういう影響を与えるか、それを考えて、手際よくやるがいいや。あんなケッタイな四十ちかい女に惚れるはずはあるまいし、タダで遊ぼうというコンタンで、部下の感情を害すとは、なさけない話じゃないか。遊ぶんだったら、金で、よその女を買いなさい」
「金がないから仕方がない」
「社長が二人いるのは、変じゃないか」
「変だ」
「敵地へのりこむようにのりこんできて、反抗したい奴はでてこい、若い者にぶん殴らせる、なんて社長があるもんか。ぼくがこの雑誌に関係したのはY氏の窮状を救うという意味でたのまれたのだから、Y氏以外の社長ができたり、Y氏の立場を悪くするようなら、ぼくの一存でこの雑誌をつぶす。どうだ」
「その気持をなんとか組のなんとか氏につたえて、善処させる」
その翌日である。
H氏となんとか組のなんとか氏が同道して拙宅をたずねた。
「お前さんはオレがよぶまで上ってくるな。荒っぽい音がするかも知れないが、下にジッとしておれ」
といって、女房を下へやった。なんしろ、反抗する奴はでてこい、痛い目にあわせてやる、という一人ぎめの社長や、柔道五段を鼻にかける編輯長のオソロイだから、タダではすみそうもない。私も腹をきめて、二人に会って、
「O氏に会って、たしかめたところでは、あんたに二十万円だしてもらったのは社長になってくれという意味ではないと断言していた。あんたが思いちがいをしたのは仕方がないが、だいたい社員に向って、反抗する奴はでてこい、若い者にヒネラせてやる、なんていう雑誌の社長があってたまるものか。あんたが社長をやめなければ、ぼくの一存で、今、この場で雑誌をつぶす。雑誌をやりたければぼくがつぶしたあと、やるがいゝ」
「社長から手をひく」
「あんたの二十万は、もう使ってしまって返されんそうだが、文句はないか」
「すすんでO氏に寄進したものだから、文句はない」
それで話はすんだ。
なんとか組のなんとか氏は、そうワカラズ屋の暴力団ではないらしかったが、H氏という女性的に神経質のニセ豪傑がひがんだ主観で事実を自分流にまげて伝えているから、変にこじれて受けとり、どやしつければ文学青年はちぢみあがるもんだと考えて乗りこんだらしい。これは見当ちがいで、文学青年と不良少年はやさしくしてやるとなつくが、どやしつけると、微底的に反抗する、当日はそれで話はすんで、一応うちとけたが、なんとか組のなんとか氏が完全に了解したわけではなく、H氏を間にはさんだための食い違いはどうすることもできないものであった。
この日の話には、ちょッとした蛇足がついてる。私には忘れられない思い出であるから、ちょッとしるしておこう。
それから三人で酒をのんだが、酔ううちに、なんとか組のなんとか氏が、自分にはほかに芸がないが腕相撲だけが自慢だ、という。こいつは面白いというので、よろしい、一戦やろう、と私が挑戦したのは、先程からの感情の行きがかりではなく、単純にひとつヒネッてやろうという気持だけであった。
私は腕相撲などはメッタにやったことがないが、終戦直後、羽織袴で私のところへやってきた右翼の青年の集りの使者の高橋という青年(今、私の家にいる)、これも柔道二段らしいが、これをヒネッて、その時以来、腕相撲では気をよくしていたせいだ。
この高橋は、私のところへ講演をたのみに来たのである。右翼青年の集りが拙者に講演をたのむとは憎い奴め、ウシロを見せるわけにはいかないから、当日でかけて行くと、二十人ぐらいの坊主頭の若者どもが小癪な目をして私をかこんで坐る。この小僧めらが、と思ったから、天皇制反対論を一時間ばかり熱演してやった。歴史的事実に拠ってウンチクを傾けたのであるが、ウンチクが不足であるから、ちょッと傾けると、たちまちカラになる。こんな筈ではなかったが、と、あっちのヒキダシ、こっちのヒキダシ、頭の中をかきまわして、おまけに話しベタとくる。闘志は満々たるものだが、演説の方は甚だチンプンカンプンであったらしい。
その後、高橋はO氏の世話でY氏の雑誌社につとめ、なんとか組のなんとか氏事件の時には、私に泣きついた一味の末輩であった。これをどういう事情によってか腕相撲でネジ伏せたことがあり、腕相撲に関する限り、右翼壮士怖るるに足らずと気をよくしていたのが失敗の元であった。
なんとか組のなんとか氏と一戦やると、全然問題にならない。彼の腕は盤石の如く微動もしないのである。
「若い者を使っていると、どこかで威勢を見せないとバカにしますから、ひそかに年月をかけて猛練習したんです」
となんとか氏はタネをあかして笑った。それは謙遜で、厭味なところはなかったのだが、行きがかりがあるから、こう軽くヒネラれては、私も癪だ。酔っ払っているから、ムラムラとイタズラ気が起って、ひとつ新川のところへ連れていって、奴メと腕相撲をとらせコテン/\にしてやろうと考えた。
新川というのは本職の相撲とりだ。六尺三十貫、頭もあるし、順調に行けば、横綱、大関はとにかくとして、三役まではとれた男だ。不動岩とガブリ四ツになったハズミに、不動岩の歯が新川の眉間へソックリくいこんだのである。全治二ヵ月、人相は一変しそれ以来、目がわるく、夜はメクラ同然、相撲がとれなくなって、人形町でトンカツ屋をはじめたのである。醤油樽を弁当箱のように軽々と届けてくれる力持ちだから、なんとか組のなんとか氏が逆立ちしたって、勝てッこないにきまってる。
新川の店へ自動車をのりつけ、
「このなんとか氏は腕相撲の素人横綱だそうだから、君、ひとつ、やってみろよ」
というと、新川という男、身体は大きいがバカにカンのよい男だ、ハハア、安吾氏コテン/\にやられたな、オレに仇をとれという意味だなと見てとって、
「ヘッヘッヘ」
と笑いながら、「へ。あんたの力は、それだけですかい」などとやりだしたが、六尺三十貫の本職の相撲取だから、廃業して飲んだくれていたって、なんとか組のなんとか氏が全力をつくしても、ハエがとまったようなものだ。
私もことごとく溜飲を下げて、にわかにねむくなり、近所の待合へ行って、先に寝てしまった。私がねてしまったあとでなんとか組のなんとか氏は芸者を相手に待合で大騒動を起したそうだが、これは腕相撲に負けたせいでなくもともと酒乱で、酔うときッとこうなるという話であった。私は白河夜船でその騒ぎを知らなかった。
翌朝、私が目をさまして、一人、新川の店へ散歩に行くと、新川が起きて新聞を読んでいる。
「先生、大変な奴が現れましたぜ」
「どんな奴が」
「まア、先生、これを見て下さいな」
新川は新聞狂で、東京の新聞をあるだけとっている。あの当時十いくつあったそれを三畳の部屋一ぱいにひろげて、当人は土間に立って、新聞の上へ両手をついてかがみこんで、順ぐりに読んでるのである。
新川の示す記事をみる。それが帝銀事件であった。私がなんとか組のなんとか氏と腕相撲していた時刻に、帝銀事件が起っていたのである。だから、私は帝銀事件に限ってアリバイがある。何月何日にどこで何をしていたというようなことは、自分の大切なことでも忘れがちなものだが、帝銀事件に限って、身のアリバイを生涯立証することができるという妙な思い出を持つに至ったのであった。
私は熱海大火の火元を知ると、いささか驚いて、
「なんとか組って、一人ぎめの社長が親分のなんとか組だろう?」
「イヤ。あれは親分じゃなくて、親分の実弟なんです」
と高橋が答えた。それで、なんとか組のなんとか氏が実の親分でないことをようやく知ったのである。
★
熱海大火後まもなく福田恆存に会ったら、
「熱海の火事は見物に行ったろうね」
ときくから、
「行ったとも。タンノウしたね。翌日は足腰が痛んで不自由したぐらい歩きまわったよ」
「そいつは羨しいね、ぼくも知ってりゃ出かけたんだが、知らなかったもので、実に残念だった」
と、ひどく口惜しがっている。この虚弱児童のようなおとなしい人物が、意外にも逞しいヤジウマ根性であるから、
「君、そんなに火事が好きかい」
「あゝ。実に残念だったよ」
見あげたヤジウマ根性だと思って、私は大いに感服した。
私が精神病院へ入院したとき小林秀雄が鮒佐《ふなさ》の佃煮なんかをブラ下げて見舞いにきてくれたが、小林が私を見舞ってくれるようなイワレ、インネンは毛頭ないのである。これ実に彼のヤジウマ根性だ。精神病院へとじこめられた文士という動物を見物しておきたかったにすぎないのである。一しょに檻の中で酒をのみ、はじめはお光り様の悪口を云っていたが、酔いが廻るとほめはじめて、どうしても私と入れ代りに檻の中に残った方が適役のような言辞を喋りまくって戻っていった。
ヤジウマ根性というものは、文学者の素質の一つなのである。是非ともなければならない、という必須のものではないが、バルザックでも、ドストエフスキーでも、ヤジウマ根性の逞しい作家は、作家的にも逞しいのが通例で、小林と福田は、日本の批評家では異例に属する創造的作家であり、その人生を創造精神で一貫しており、批評家ではなくて、作家とよぶべき二人である。そろって旺盛なヤジウマ根性にめぐまれているのは偶然ではない。
しかし、天性敏活で、チョコ/\と非常線をくぐるぐらいお茶の子サイサイの運動神経をもつ小林秀雄が大ヤジウマなのにフシギはないが、幼稚園なみのキャッチボールも満足にできそうにない福田恆存が大ヤジウマだとは意外千万であった。
私は熱海の火事場を歩きまわってヘトヘトになり、しかし、いくらでもミレンはあったが、女房がついてるから仕方がない。終電車の一つ前の電車にのって伊東へ戻った。満員スシ詰め、死ものぐるいに押しこまれて来ノ宮へ吐きだされた幾つかの電車のヤジウマの大半が終電車に殺到すると見てとったからで、事実、私たちの電車は、満員ではあったが、ギュウ/\詰めではなかった。さすればヤジウマの大半が終電事につめかけたわけで、罹災者の乗りこむ者も多いから、終電車の阿鼻叫喚が思いやられた次第であった。
網代の漁師のアンチャン連の多くは火事場のどこで飲んだのか酔っぱらっており、とうとう喧嘩になったらしく、網代のプラットフォームは鮮血で染っていた。
伊東へついて、疲れた足をひきずり地下道へ降りようとすると、
「アッ。奥さん」
「アラア」
と云って、女房が奇声をあげて誰かと挨拶している。新潮社の菅原記者だ。ふと見ると、石川淳が一しょじゃないか。
「ヤ、どうしたの」
ときくと、石川淳は顔面蒼白、紙の如しとはこの顔色である。せつなげに笑って(せつないところは見せたがらない男なのだが、それがこうなるのだからなおさら痛々しい)
「熱海で焼けだされたんだ。菅原と二人でね。熱海へついて、散歩して一風呂あびてると、火事だから逃げろ、というんでね」
文士の誰かがこんな目にあってるとは思っていたが、石川淳とは思いもよらなかった。
彼らは夕方熱海についた。起雲閣というところへ旅装をといて、散歩にでると、埋立地が火事だという。そのとき火事がはじまったのである。
火事はすぐ近いが、石川淳はそ
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