件あったほかは、私たちがこの交番で接したのは、もっぱら酔っ払い旋風であった。応接いとまなしであった。
 田川博一が私の横で深刻そうに腕ぐみして呟いた。
「もう、新宿じゃア、のまん」
 悲愴な顔だが、禁酒宣言というものは三日の寿命しかないものだ。

          ★

 さて、いよいよ上野ジャングル探険記を語る順がまわってきた。四月十五日に探険して、それから一週間もすぎて、まだこの原稿にかかっているにはワケがある。
 私も上野ジャングルには茫然自失した。私がメンメンとわが不良の生涯を御披露に及んだのも、かかる不良なる人物すらも茫々然と自ら失う上野ジャングルを無言のうちに納得していただこうというコンタンだった。
 上野ジャングルに於て、私が目で見、耳できいた風物や言語音響を、いかに表現すべきかに迷ったのである。読者に不快、不潔感を与えずに表現しうるであろうか。そッくり書くと気の弱い読者は嘔吐感を催してねこんでしまうかも知れんが、その先に雑誌が発売禁止になってしまうよ。
 新宿交番が酔っ払い事件の応接にイトマなく、ただもうムヤミに忙しいのにくらべると、上野の杜の交番は四辺シンカンとしてシジマにみち、訪う人もなく、全然ノンビリしている。ノンビリせざるを得んのである。一足クラヤミの外へでて、ヤミに向って光をてらすと、百鬼夜行、ジャングル満山百鬼のウゴメキにみちている。処置がない。
 新宿は喧噪にみち、時に血まみれ事件が起っても、万人が酔えば自らも覚えのある世界であり、事件であって、我々自身の生活から距離のあるものではない。いつ我々が同じ事件にまきこまれるか知れないという心細さを感じるのである。
 上野は異国だ。我々が棲み生活する国から甚大の距離がある。何千里あるか知れないが、そこは完全な異国なのだ。
 天下の弥次馬をもって任じる私が、終戦以来一度も上野を訪れたことがないとはフシギだが、しかし私が見た上野はブラリとでかけて見聞できる上野ではない。ピストルをもった警官が案内してくれなければ、踏みこむことのできないジャングルなのである。
 私は上野を思うたびに、いつも思いだす人物があった。
 むかし、銀座裏に千代梅という飲み屋があった。ここにヤマさんという美少年の居候がいた。年は十八。左団次のお弟子の女形で、オヤマという言葉からヤマさんと愛称されていたが、水もしたたるような美
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