ワリがよかった。
 この連中は年齢も二十をすぎ、いっぱし大人の生活をし、女郎買いに行ったりして、一般の中学生の目には異様であるが、ヨタモノとは違う。
 硬派、軟派の本ヨタは、年齢的には、むしろ普通の中学生に多かった。
 落語で云うと、コレ定吉、ヘーイ、というような筒袖の小僧ッ子が、朝ッパラから五六人あつまって、一升ビンで買ってきた電気ブランをのんでいる。三人ぶんぐらいの洋服や着物を曲げて、電気ブランを買ってきたのである。
 小僧ッ子が酔っ払うと、目がすわる。呂律《ろれつ》が廻らなくなることは同じことだが、理性は案外シッカリしていて、ちょッとした大言壮語するぐらいで、大人のように取り乱した酔い方はしないものだ。酔うと発情するような傾向もないし、シンから疲れているようなところもないせいかも知れない。
 じゃ一仕事してこようや、と云って、酔いの少いのが、三人ぐらい、曲げ残りの制服や筒袖をきて、でかけて行くのである。腰にまいたバンドが武器だ。筒袖はメリケン・サックというものを忍ばせている。
 よその学校のヨタがかったのや、軟派をおどかして金をまきあげることもあるし、セッパつまると、大人にインネンをつけることもある。小僧ッ子とあなどると案外で、ヒョウのような目で突然おそいかかって、メリケンをくらわせたり、バンドをふりまわしたり、警察へアゲられても、仲間のことは一言も喋らず、三四日してニヤニヤと出てくるのがいる。十六七の小さい中学生なのである。
 彼らは賭場へのりこむこともある。貸元の賭場ではなくて、車夫だとか、自由労働者とか、本職でもなしズブの素人でもなしという手合の半常習的なレッキとした大人の世界へのりこんで行くのである。
 子供とあなどってインチキなことをやると、少年の行動というものはジンソクなもので、居直ったと思うと疾風ジンライ的にバンドを構え、メリケン・サックを閃めかして大人にせまっている。
 私は一度だけ、彼らがそんなことをする現場に居合したことがあるが、彼らは私に遠く離れて彼らの仲間と思われぬようにしているようにと注意を与え、細心なイタワリを払ってくれて、仲間になれとか、見張りしてくれとか、そんなことは決して云わなかった。
 九州のオッサン組と本ヨタ組は完全に没交渉であったが、私はどちらからも大事にされて、甚だケッコウな身分であった。
 九州のオッサン組は年をくっ
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