り、這般《しゃはん》の限界に遊ぶことを風流と称するのである。
 忍術にも限界があるということ、この大きな風流を人々は忘れているようだ。
 大マジメな人々は、真理の追求に急であるが、真理にも限界があるということ、この大切な「風流」を忘れているから、殺気立ってしまう。すぐさまプラカードを立てて押し歩き、共産主義社会になると人間に絶対の幸福がくるようなことを口走る。
 人間社会というものは、一方的には片付かない仕組みのものだ。善悪は共存し、幸不幸は共存する。もっと悪いことには、生死が共存し、人は必ず死ぬのである。人が死ななくなった時、人生も地球も終りである。
 いくら大マジメでも、一方的な追求に急なことは賀すべきことではない。大マジメな社会改良家も、大マジメな殺人犯も、同じようなものだ。いずれも良識の敵であり、ひらたく云えば、風流に反しているのである。
 敗戦後の日本は、乱世の群盗時代でもあるが、反面大マジメな社会改良家の時代でもあり、ともに風流を失した時代でもあるのである。
 私がハンスト先生に一陣の涼風を覚えたのは、泰平の風流心をマザマザと味得させられたからで、私は大マジメな社会改良家には一向に親愛を覚えないが、この先生には親愛の念を禁じ得ないのである。
 泥棒をやるぐらいなら、これぐらい手際よくやってもらいたい。何事にも手際というものが大切だ。仕事には手際が身上だ。それが人間の値打でもある。
 手際の良さということには、救いがあるのである。騙される快感というものを、万人が持っているからだ。帝銀事件の犯人がほかに居ればよいという考えは、平沢氏に対する同情からのことではなくて、手際よき忍術使いへの憧憬だ。警察にはお気の毒だが、人間にはそういう感情があり、風流は、そういうところに根ざしているものなのである。
 私がハンスト先生に憎悪の念がもてない理由の一つには、温泉町の特性から来ているものがある。ドテラの着流しで夜の街をゾロゾロ歩いている温泉客というものは、銀座の酔ッ払いとは違っている。
 二人は同じ人かも知れないが、銀座で酔ッ払っている時と、ドテラの着流しで温泉街を歩いている時は、人種が違うのである。温泉客というものには個性がない。銀座の酔っ払いは女を見るに恋人という考えを忘れていないが、温泉客は十把一とからげにパンパンがあるばかりで、恋人を探すような誠意はない。完全に生活圏を出外れて、一種の痴呆状態であり、無誠意の状態でもある。生活圏内の人間から盗みをするのは気の毒であるが、生活圏外の人間から盗みをするのは気の毒ではないような感情が、温泉地に住んでいると、生れてくるようである。
 これは温泉客の性格であると同時に、日本人が団体的になった場合の悲しむべき性格でもあるようだ。どうにも、人間という感じがしない。生活圏にいる人の同族の哀れさというものが感じられないのだ。
 温泉地と温泉客との関係は、日本占領地と日本軍のような血のツナガリのない関係だ。温泉の団体客というものは、マニラ占領の日本兵隊を感じさせるのである。
 温泉街を土足で蹴っているのである。私が温泉商店街のオヤジだったら、ずいぶんボリたくなるような気持だが、オヤジ連はその割にボラないのである。ジッと我慢しているのかも知れない。
 だからハンストの先生は、温泉地の悪童からは、あんまり憎まれていないようである。



底本:「坂口安吾全集 08」筑摩書房
   1998(平成10)年9月20日初版第1刷発行
底本の親本:「文藝春秋 第二八巻第六号」
   1950(昭和25)年5月1日発行
初出:「文藝春秋 第二八巻第六号」
   1950(昭和25)年5月1日発行
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5−86)を、大振りにつくっています。
入力:tatsuki
校正:宮元淳一
2006年1月10日作成
青空文庫作成ファイル:
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