た堤マサヨ代議士に至っては、さらにフンパンの至りで、文士と代議士では、考えること、為すこと、アベコベのようだ。私だったら、こういう友人の激励はゴメン蒙って、どうかお引きとり下さい、と頼む。
 厳粛なる事実があったから結婚させた、という。そんなもの、有っても無くても、いいじゃないか。ボクらにとって、問題は、二人が結婚せずにいられないか、いられるか、結婚せずにすむなら、結婚する必要はないだけの話である。情熱の問題である。
 厳粛な事実、とは何ですか。ニンシンのことですか。そんなものが結婚を余儀なくせしめる理由になるなら、すでに結婚して何人も子供を生んでいる先夫人の方が、より大きな厳粛な事実じゃないか。この女代議士は何を言うつもりなのだろう。
 一時のアヤマリということがある。若気のアヤマチというが、年をとってもアヤマチは絶えないものだ。まして未婚の天光光氏がアヤマチを犯すのは有りがちで、フシギはないのである。
 アヤマチは仕方がない。これを繰りかえさぬ分別が大切で、一度のアヤマチを生かして前途の指針の一つとし、二度と同じ愚を犯さぬように利用できれば、充分で、かかる工作を理性の力というのである。
 ニンシンぐらい、何でもない。この結婚が不適当と分ったら、ニンシンぐらいにこだわらず、結婚をとりやめるのを理性といい、そこに進歩もあるのである。ニンシンにひきずられて、不適当と知りながら結婚するなどゝは、新派悲劇以前で、ヨタモノだったら、女をニンシンさせて抑えつけて、ゆすったりするが、理性ある人間の社会では、こんな悲劇はもう存在しない。ニンシンにひきずられて不適当な結婚をするよりも、私生児をかかえて不適当な結婚を避ける方が、どれぐらい理にかなっているか知れない。
 だいたい女が不適当な結婚と知りながらニンシンにひきずられて結婚するのは、女に独立の生活が出来ないからで、男と結婚しなければ生きられず、又、私生児を抱えては他の男と結婚するチャンスもない。そういう場合の悲劇だ。
 天光光氏の場合には、あてはまらない。もし私生児を抱えて結婚しないことが不都合であるとすれば、政治的な意味に於てで、選挙対策として不都合だというに尽きるであろう。
 生活の手段としての結婚はほゞ絶対的なものであるが、選挙対策としてならば、結婚は必ずしも絶対的のものではない。
 堤氏の言う如く、この結婚はまちがって
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