、患者はつつましく生活しており、麻薬中毒や宗教中毒のような騒音はすくない。麻薬中毒も幻視幻聴が起きるが、宗教中毒もそうである。
私は日本人は特に精神病の発病し易い傾向にある人種だと思うが、どうだろう。
私は東大神経科へ入院しているとき、散歩を許されて、ほかに行く場所もないので、再三後楽園へ野球を見物に行った。私は長蛇の列にまじって行列しながら、オレが精神病者であることはハッキリしているが、ほかの連中もそうなんじゃないかな、この連中はその自覚がないのだから何をするか見当がつかないし、薄気味わるくて困った。
私は野球を自分で遊ぶことは楽しいが、見るのは、そんなに好きでない。単にそれだから云うわけではないが、ほかに見ること為すことタクサンあるのに、なぜ、あんなにタクサンの人間が野球を見物しているか、ということだ。つまり、流行だからである。新聞が書きたてるからだ。面白くても面白くなくても、かまわない。流行をたのしむ精神である。
これを私は集団性中毒と名づけて、初期の精神病と見るのである。麻薬中毒や宗教中毒は二期に属し、集団性中毒はこれよりは軽く、一歩手前の状態である。
自分で見物したいと意志してはいるが、根本的には自由意志が欠けている。好きキライをハッキリ判別する眼力が成熟せず、自分の生活圏が確立されていない。新聞の書きたてるものへ動いて行く。動いて行くばかりで停止し、発見することがない。これがこの中毒患者の特長である。
シールズ戦を見物の帰り、池島信平が、ウーム、あれだけの人間に二冊ずつ文藝春秋を持たせてえ、と云ったが、これだけ商売熱心のところ、やや精神病を救われている。私は伊東からわざわざ見物に行ったから、まだ精神病かも知れないが、こうして原稿紙に書きこんで稼いでいるから、やっぱり商業精神の発露で、病気完治せりと判断している。
私はヤジウマではあるが流行ということだけでは同化しないところがチョットした取柄であった。戦争中、カシワデのようなことをして、朝な朝なノリトのようなものを唸る行事に幸い一度も参加せずにすむことができたし、電車の中で宮城の方向に向って、人のお尻を拝まずにすんだ。
ベルリンのオリンピックでオリムポスの神殿の火を競技場までリレーするのは一つの発明で結構であるが、それ以来、やたらと日本の競技会で、なんでもいゝから、どこからか火を運ぶ。なにかを運んでリレーをしてからでないと、今もって日本の競技会はひらくことができないのである。海の彼方からは、赤旗の乱舞とスクラムとインターの合唱をやってみせないと気がすまないという宗教団体が船に乗って渡ってくる。
この競技会の主催者や日本海を渡ってくる宗教団体は、悪質な宗教中毒の親玉であり、ノリトやカシワデが国を亡したように、こんな宗教行事が国家的に行われるようになると国は又亡びる。国家的な集団発狂が近づいているのである。
美とは何ぞや、ということが分ると、精神病は相当抑えることができる。ノリトやカシワデや聖火リレーや天皇服やインターナショナルの合唱は、美ではないことが分るからである。しかし一方、狂人は自らの狂気を自覚しないところに致命的な欠点があるから、ここが非常にむつかしい。狂人には刃物を持たせないこと。最後にはこれだけしかない。権力とか毒薬とか刃物とかバクダンとか、すべて危険な物を持たせないことが、狂人を平和な隣人たらしめる唯一の方法なのである。
底本:「坂口安吾全集 08」筑摩書房
1998(平成10)年9月20日初版第1刷発行
底本の親本:「文藝春秋 第二八巻第一号」
1950(昭和25)年1月1日発行
初出:「文藝春秋 第二八巻第一号」
1950(昭和25)年1月1日発行
入力:tatsuki
校正:宮元淳一
2006年1月10日作成
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