ようだ。
ヒュースケンとお福はうまくいった。つまりラシャメン一号はお福の方で、お吉はラシャメン落第生だったのである。しかし唐人お吉の名だけが残ったのは、その性格人柄によるのであろう。ハリスは看護婦をもとめ、お吉は妾のつもりで乗りこみ両者食いちがっていたから是非もないが、両者ともにバガボンド的で魂の孤独な人たちだから、心がふれあえば温く理解し合ったかも知れない。ハリスは当時五十一であった。
後日ハリスが公使になって後、ヒュースケンは攘夷の浪士に殺された。英仏露等の公使がそれを機に日本を武力で屈服させようとしたとき、ハリスだけは日本の肩をもった。長い鎖国から開国したばかりの日本に外国人を憎む分子がはびこるのは当然であるし、日本を開国させた自分は開国後の日本を助け指導する義務がある。日本を苦しめることはできない、と云ってただ一人反対した。そのために英仏露は立場を失い窮したことがあった。
むろんこれはハリスの外交手腕でもあるけれども、ヒュースケンという自分の片腕とたのむ人物、そしてわが子のように愛していた若者を殺されて、しかもその人情よりも外交の仕事や義務の方を大事にしたハリスは偉大な人物といえよう。自分の野心や抱負のために、かくも畏しく人情を押えることのできたハリスは、お吉や女色に対しても情を押え得た人物であったろうことは想像できるのである。ハリスは甚だ個性的な独特の冒険児であり紳士であった。唐人お吉の物語はハリスの側からも書かれる必要があるだろう。その方がむしろ文学的興味をそそるもののように私は考えている。
底本:「坂口安吾全集 14」筑摩書房
1999(平成11)年6月20日初版第1刷発行
底本の親本:「歌劇・黒船」
1954(昭和29)年5月27日発行
初出:「歌劇・黒船」
1954(昭和29)年5月27日発行
※初出の「歌劇・黒船」は、1954(昭和29)年5月27日から6月1日にかけて日比谷公会堂で上演された、日本楽劇協会第一〇回公演のパンフレットです。
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5−86)を、大振りにつくっています。
入力:tatsuki
校正:土井 亨
2006年7月11日作成
青空文庫作成ファイル:
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