代にさかのぼっての日本史の謎があるように思われる。桓武、清和、宇多というような平安朝の天子を祖とすることまではハッキリしているが、その平安朝の天子に至るまでの大昔が問題であり謎である。甚しい謎だ。
桓武天皇はどうして遷都しなければならなかったのだろう? なぜ長岡の工を中止したのだろう? それから数代、必ず前天皇の子を皇太子に立てる風習はなぜだろう。
後年南北朝の休戦条約に交替に皇位継承というのがあるが、それは当時の新工夫ではなく、非常に古い源流があったのではないかと思われる節々もあるのです。
藤原京を経て奈良京に都したとき、日本の中央政府はどうやら確立の礎が定まったと見ることができる。
武蔵の国に七ヶ国のコマ人をあつめてコマ郡をおいたのはその時のことだ。全国各地に土着した多くのコマ人は決して自らコマ人などとは称せず、中央政府のもとに日本人になりきってしまった時だ。七ヶ国の一千七百九十九名だけが、なぜコマ人と称して異を立てる理由があったのだろう?
コマの祖国はその約五十年ほど前にシラギに亡ぼされているのだが、そのときコマの王様王族が日本へ亡命したというような記事は歴史に現れていない。
むしろシラギがコマを亡した直後に続々来朝移住したのはシラギ人だが、勝った方が堂々と来朝移住し、負けた方がコソコソ遁入して隠遁定着するのも自然の数で、正史が亡命者の方を大ッピラに記載できないような意味もあったろう。そして関東一円にもシラギの移住は甚しく多かった。一まとめに何千人というのはないが少数ずつ次々とあって、コマの移住者の比ではないようだ。
ただ大宝三年四月の条に、
「従五位下高麗若光に王《コキシ》姓を与えた」
とあって、大宝三年というとコマ亡びて三十五年後だが、シラギ人の賑やかな来朝移住時代にコマ人が王姓をもらい、これがコマ家の祖先と云われている。コマ村のコマ神社の宮司コマ家に伝わる系図によると、武蔵の国現入間郡コマ村のコマ人はここに移り集って若光に統率されていたもので、その子孫がコマ神社宮司家であることになっているのだ。
この系図は中世にいったん焼け、そこで一族全員の記録を集めて新しく造ったものであるが、その書き出しは虫がくってチョン切れておって、
「これによってつき従ってきた貴賤相集り、屍体を城外にうめ、また神国の例によって、御殿の後山に霊廟をたて、コマ明神とあがめ、郡中に凶事があるとこれに祈った。長子家重が家をついだ。天平勝宝三年に僧勝楽が死んだ。弘仁と其の弟子の聖雲とが遺骨を納めて勝楽寺をたてた。聖雲は若光の三番目の子である」
という意味の前書きがあって、そこから系図になっている。その系図は
家重。弘仁。清仁。(以下略)
とあって、家重は死んだ人の長子であり、弘仁は家重の弟らしく、又その弟に当る三男が聖雲らしく、清仁は弘仁の子である。
この前書の前の方がチョン切れているから死んだ人の名は現れないが、恐らく若光をさすのであろう。
虫が食ったと云われているが、実際はそうではない。中世に焼けた後に、一族参集して一度は再び完成した系図があったのである。ところが、それを更に後世の誰かが「これによって」の前の方を引き裂いて捨てたのである。虫がくったのではなく引き裂いた跡はハッキリしており、さき残った字の一部分がついているが、偏の一部程度だから読むことはできない。
後世の子孫が引き裂かねばならぬ理由があったのだろう。たぶん国撰の史書と異る記載があるために、後世の子孫にとって当時の事情として都合がわるい記事があった為だろうと察せられる。なおこの系図はその後一時人手に渡ったこともあり、また明治十八年には内閣修史局のモトメに応じて差しだし、内閣修史局で模写をつくり原本を本主に返したともあるから、それらを機縁に一部を破却する必要があったのかも知れぬ。
★
白髯《しらひげ》神社は武蔵野に多く散在しているが、一番有名なのは向島の白髯サマであろう。しかし白髯明神の総本家はコマ神社と云われている。
私は武蔵の国コマ郡コマ村と、コマ神社の存在については以前から甚しく興味をもっていて、この新日本地理に扱うために、すでに今年の二月コマ村を訪問しようとしたことがあったのである。
なぜなら、私はこの神社の祭事は必ず正月十五日にあるだろうと信じていたからだ。道祖神系統の祭事はたいがい十五日だが、特に正月十五日が主流のようで、鳥追だのホイタケ棒だのというのが行われるのもこの日取のころが多い。道祖神のようなものは蒙古には今でも同じような信仰があるし、コマ人は支那文化をとりいれて日本に土着するまでに相当に文化的扮装をとげているが、その基本の系統をさかのぼると蒙古までは間違いなく至りうるようである。それから更にチベットや中央アジヤの方向へさかのぼりうるかどうかは見当がつかないけれども、とにかく私は蒙古までつながりうるものと考え、正月十五日に先祖伝来の祭事があるのではないかと考えたのだ。そして、それを旧の正月十五日と考えた。そして今年の旧正月十五日にブラリとコマ村を訪ねてみようと思って予定を立てていたが、そのとき仕事に追われていたので、たった一日の旅行すらも不可能であった。
しかし、これを天祐神助、祖神の導き、と云うのかも知れんな。旧正月に来なくて幸せでした。妙な偶然があるものだ。
私はその二、三日石神井の檀一雄のところに泊っていたが、そこからコマ村まで近いから、でかけてみようじゃないかと一決した。旧の正月十五日を狙った場合とちがって、武蔵野散歩という程度の軽い考えであったが、たまたま文春の中野君がそれをきいて、
「それを新日本地理に……」
と、泊りこんでのサイソクである。ブラリと散歩するだけでそんな材料が得られるかどうか分らないし、私がコマ村について知ってることはと云えば、古代史の記事と、白髯サマの総本家がコマ神社であることと、コマ村がわりあい後世まで部落結婚だったこと、行事習慣などに特殊なものがあるらしい、ということ。万事「らしい」程度の興味だけ所有していたにすぎないのである。
「まアいいや。飯能でヒル飯をくって、土地の物知りにきいてみようや」
そこで檀君と中野君と私の三名、石神井から武蔵野を走ること電車で一時間、飯能についた。駅の広告に、
「天覧山麓、温泉旅館、東雲亭」
とあったから、
「ヒル飯はあそこだ!」
と、そこへ乗りこむ。大きな旅館だが、全館寂として人の姿がない。けれども、サッと酒肴を持参する。ノロマなところがない。
山の芋だの、山の野菜、山の鳥や魚の料理で、海のもの、海の魚のサシミだのイセエビなどという旅館料理は現れない。オヤオヤ、大きなスイートポテトを持ってきやがったなア、と思ったら、これがサツマ芋の皮に入れてむした茶碗ムシ(芋ムシですかな)であった。土地の品々の料理ばかりで、皿数は少くないがいずれもポッチリで、酒の看で胃袋の空地をむやみに埋めたがらない酒飲みの心意気までよく飲みこんでいる。
「誰かコマ村を知ってる人はいませんかね」
とたのむと、
「ハイ。私が知ってます」
と云って、女中がパンフレットの類いを持参して現れた。
「あなたはコマ村のお生れか」
「いいえ、その隣りです」
「向う隣りですか」
「こッち隣りです」
「じゃア、飯能じゃないか」
「ハイ。そうです」
よく出来ました、というところ。何扉だか何教室だか知れんが、このへんは日本津々浦々、実にラジオの悪影響ならんか。コマ村のことは何をきいても全然知らんのである。
「あなたは、コマ村の何を知っているのかね?」
「ハイ。コマ村へ行く道を知っています」
飯能の女中サンに完璧にからかわれてしまいましたな。
自動車をよんでもらってコマ村へ出発する。飯能の女中サンに運転を御依頼したわけではなくて、タクシーの運転手もコマ村へ行く道については心得があったようだ。たった十分か十五分ぐらいの平凡な道である。
出発がおそかったので、コマ神社に到着したのは、タソガレのせまる頃であった。
社殿の下に人がむれている。笛の音だ。太鼓の音だ。ああ、獅子が舞いみだれているではないか。
なんという奇妙なことだろう。
「今日はお祭りだろうか?」
自動車を降りて、私たちは顔を見合せたのである。
しかし、お祭りにしては人間の数がすくない。むれているのは概ね子供たちで三四十人にすぎない。だが獅子の舞いは真剣だし、笛を吹く人たちもキマジメであった。
「明日がお祭りだそうです。今日のはその練習だそうです。なおよく社務所へ行ってきいてきます」
と、中野君は姿を消した。
私は目をみはり、耳をそばだてた。私の心はすでにひきこまれていた。その笛の音に。なんという単調な、そしておよそ獅子の舞にふさわしくない物悲しい笛の音だろう。笛を吹いているのは六名のお爺さんであった。
吉野の吉水院に後醍醐天皇御愛用のコマ笛があったが、それは色々と飾りのついた笛で、第一木製ではなかったような気がする。ここのはオソマツな横笛であるが、笛本来の音のせいか、音律のせいか、遠くはるばるとハラワタにしみるような悲しさ切なさである。
日本の音律に一番これによく似たものが、ただ一ツだけあるようだ。それは子供達の、
「も・う・い・い・かアーい」
「まア・だ・だ・よーオ」
という隠れんぼの声だ。それを遠く木魂にしてきくと、この笛の単調な繰り返しに、かなり似るようである。すぐ耳もとで笛をききながら、タソガレの山中はるかにカナカナをきくような遠さを覚えた。
獅子は舞いながら太鼓をうつ。この太鼓が笛の悲しさに甚しくツリアイがとれている。その響きが一間か一間半ぐらいで、急にとぎれて吸われて、なくなるような、厚い布地をかぶせて太鼓をうってるような鈍い音。
普通の獅子舞いは、獅子と太鼓は別人がやる。獅子は面を頭上にかざして口をパクパクやるために両手を使うから、太鼓をうつことはできないのである。
この獅子は頭上に獅子をかぶり、顔の前面には長いベールを垂らしている。グッとそッくりかえったり、前かがみになってタテガミをふったりしながら、片足を踏みあげて、太鼓をうつ。獅子は腹部に太鼓をぶらさげ、自分でそれを舞いながら打つ。
赤青黒の三人の獅子。その足の捌きや、身の振り方はやや日本化しているが、それは彼らが自然に日本人に同化するうちに巧まずして多少の影響をうけただけのことで、その本来の骨法はまったく日本の現実に何の拘りもないことが分る。支那風でもあるが、蒙古風と云うべきかも知れないな。
舞いは二匹のオス獅子が一匹のメス獅子を取りッこするのを現しているのだそうだが、それにふさわしい勇ましさも陽気さもなく、ただ物悲しく単調な笛であり太鼓であった。
「祖神の霊をなぐさめるとでもいうのかなア。ところが陽気なところが全然ないからなア。荒々しく悲しく死んだ切ない運命の神様を泣きながら慰めているのかなア」
私がこう呟くと、
「まったく、そうとしか考えられない」
檀君も腕ぐみをして考えこんでいるような答えを返した。
私がコマ村のことで第一番に皆さんにお知らせしたいのは、この笛の音なのだが、音を雑誌に出せないのが痛恨事です。ただ、
「もういいかアーい」
「まアだだよーオ」
という隠れんぼの呼び声に他のいかなる音よりも似ていることは確かです。
ところが、この獅子舞はメスの獅子をオスの二匹が取りッこするというけれども、実は隠れたメスを探しッこするのである。つまりやっぱり隠れんぼである。
「もういいかアーい」
「まアだだよーオ」
という隠れんぼの呼び声は今や全国的であるけれども、その発祥は武蔵野で、武蔵野界隈にだけ古くから伝わっていたにすぎないもののようだ。この獅子舞、笛の音と、ツナガリがあるのではないでしょうか。私はひどく考えこんでしまいましたよ。
まもなく中野君が若い神官をともなってきた。宮司が不在でその息子さんであった。私たちは若い神官にみちびかれて社務所へ招ぜられた。系図を見たのはこの日である
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