そこが当時の海岸で海はそこから上野|不忍池《しのばずのいけ》まで入海になっていたものの由です。もっともそれは江戸開府ごろの話ではなくて、浅草の観音様ができた当時、千何百年むかしの話です。本郷の弥生ヶ丘や芝山内がまだ海岸だった頃のことだ。
 続日本紀、元正天皇霊亀二年五月の条に、「駿河、甲斐、相模、上総《かずさ》、下総、常陸《ひたち》、下野《しもつけ》の七国の高麗人一千七百九十九人を武蔵の国にうつし、高麗郡を置く」とある。これが今の高麗村、または高麗郡(現入間郡)発祥を語る官撰国史の記事なのである。
 この高麗《コマ》は新羅《シラギ》滅亡後朝鮮の主権を握った高麗《コウライ》ではなくて、高句麗《コクリ》をさすものである。
 高句麗は扶余《フヨ》族という。松花江上流から満洲を南下して朝鮮の北半に至り、最後には平壌に都した。当時朝鮮には高句麗のほかに百済《クダラ》と新羅《シラギ》があった。百済は高句麗同様、扶余族と称せられている。日本の仏教は欽明天皇の時、今から千四百年ほど前に百済の聖明王から伝えられたと云われているのである。
 ともかく扶余族の発祥地はハッキリしないが満洲から朝鮮へと南下して
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