市を通る時には、窓から吹きこむ風すらも、むさぼるばかりに、なつかしかった。風の中に私がとけてしまッてもフシギではなかったのです。秋田市が焼跡のバラック都市よりも暗く侘しく汚くても、この町が私にとってはカケガエのない何かであったことも、どう言い訳もなかったのです。
「秋田はいい町だよ。美しいや」
 私は新聞記者にそうウソをついてやりました。すると彼は、たぶん、と私が予期していたように、しかし甚ださりげなく、また慎しみを失わずに、あの人の名を言いだした。
「あゝ。あの人なら、知ってるよ。たぶん、横手のあたりに生れた人だろう」
 私は何食わぬ顔で、そう云ってやった。むろん私はその記者に腹を立てるところなどミジンもなかった。私はこの土地であの人の名をハッキリ耳にきくことによって、十年前に死んだ、その人と対座している機会を得たような感傷にひたった。着いたトタンにいきなり新聞記者が訪ねて来たことも、そしていきなりあの人の名をきいてしまったことも、私とこの土地に吹く風だけが知り合っている秘密のエニシであるということをひそかに考えてみることなどを愉しんだのである。
 街へ散歩にでたら、百貨店の飾り窓に甚しく私の気に入ったステッキがあった。秋田産のカバハリというステッキだった。その店内にたった一本あるだけのステッキでもあった。すべてそれらのことがなんとなく私を満足させ、落付かせた。
 秋田市では別に目的もないので、なんとなく本屋だの裏町だのをブラブラ歩いただけである。旅館で食べたショッツル鍋が、さすがに東京の秋田料理屋で食べるものよりも美味であった。そして、地酒もうまかったが、腹をこわしていたので、舌にのせてころがす程度にしか味えないのが残念であった。

          ★

 翌日、目的の秋田犬を見るために大館へ出発した。私たちは大館市の秋田犬保存会長、平泉栄吉氏宛の紹介状をもらって東京を立ってきたのである。ところが例の新聞記者の訪問によって、私たちが秋田犬を見るために来ていることが知れたから、私たちが大館に向いつつあるとき、逆に平泉氏から旅館へ電話がきたそうだ。
「秋田犬を見るなら、秋田市ではダメ。大館へ来なければダメではないか」
 こういう強硬な申入れであったらしいが、すでに私たちは大館へ出発した後であった。
 彼がかくも強硬な申入れを行うのは頷けるのである。たしかに大館へ行かなければ秋田犬を知ることが不可能であるばかりでなく、秋田犬に対して彼の如くに無邪気な熱情をつぎこんでいる人物は天下に二人といないであろうからである。
 旅先でこのように邪心の少い好人物にめぐりあうのは嬉しいものである。彼は秋田犬に対して、一見なんとなく控え目に見えるが、実は損得ぬきで溺れこんだ満身これ秋田犬愛の熱血に煮えたぎっているのであった。
 彼のように整然たる、抜けるように色の白い美紳士を時々北国で見かけるのは私だけではあるまい。むかしヘルプという薬のマークの美紳士によく似た整然たる白色の紳士なのだ。あのマークの紳士と同じように、色も白いが、美髯《びぜん》をたくわえているのもほぼ共通しているようである。子供心に強く印象に残っているのでは、吉田という伯父がそうであった。これが私の知る実在のヘルプ紳士第一号である。今年の春、塩ガマへ旅行したとき、塩ガマ神社の裏参道の登り口に神様と共存共栄しているサフラン湯本舗のオヤジが、これもヘルプ型であった。もッとも彼は真ッ昼間というのに酒に酔っ払ってふらついていたから、顔の色は抜けるように白いというわけには参らずタコの面色を呈していたし、酔っているから若干ロレツもまわらないし、それにともなってお行儀の方も甲や乙や優や良というわけにはいかなかったが、それは整然たるヘルプ紳士のお行儀として失格しているだけのことで、ただの酔っ払いのお行儀としてなら充分見どころがあったのである。塩ガマ神社の裏参道にトグロをまいているだけのことはあって、ヘルプ紳士の荒ミタマあるいはヘルプ紳士のスサノオノミコトというところであった。
 秋田犬保存会長はこういうお行儀のわるいスサノオノミコトではなかったのである。すべてに於てダンチであった。整然たるリンカクに於ても、色の白さに於ても、美しいヒゲに於ても、ヘルプ紳士の最優良種に属していたが、お行儀のよさ、気のやさしさ、物やわらかさ、すべてに申し分のないヘルプ紳士中のヘルプ紳士であった。難を云えば、いささか小柄の点だけだが、色あくまで白く、形あくまで整然たるヘルプ紳士としては、ヨーロッパの貴顕ほどの柄はなくとも、佐々木小次郎から武骨を取りのぞいた程度の柄はもたせたいものであった。もっとも、秋田犬と見くらべざるを得なかったせいで、実際以上に柄が小さく感じられたのかも知れない。
 実に秋田犬と共存共栄して、己れ
前へ 次へ
全10ページ中7ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
坂口 安吾 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング