して、計画的により良い新作品を工夫するのが当り前じゃないか。けれども、この当り前のことが日本では珍しいのだ。通俗な庶民感情を押えて断行するだけの洞察力も信念もない政治家や市長が普通だ。彼らが庶民感情を抑えつけて強行断行することは、庶民の利益には反するが、自分の利益になることが主である。熱海市長が断行したのはそのアベコベのことである。市民の当座の利益には反するけれども、やがて熱海にとって地の塩たるべき計画性ある根本的な施策であった。奇も変もない当り前の根本的なことであるが、この当然なことが他の焼跡のバラック都市では殆ど見ることができないのである。
私がフラフラ状態で秋田市へつき、旅館に辿りついたとき、いきなり秋田の新聞記者が訪ねてきた。
「秋田市の印象はいかがですか」
これが彼の第一番目の質問だったが、着いたトタンに印象などがあるもんですか。それにしても何たる忍術使いの記者であろうか。私の旅行はその土地の人には分らぬようにいつも秘密にでかけているのに、風土的に鈍重の性能充分の感ある秋田記者の何たる敏感さよ。ところがアニはからんや私の泊った栄太楼旅館の息子が、新聞記者だったのさ。
また私が秋田駅へ着いたとき、一人の女性がためろう色なくサッと歩みよって、
「旅館からお迎いに上りました」
と云った。この時も、秋田オバコのこは何たる敏感さよと、到着|匆々《そうそう》重ね重ね敵の意外な敏感さにおどろくことばかりである。ところがこれもアニはからんや、このオバコ、つまり旅館の女中さんは、戦争までレーンボーグリルの女中さんであったそうな。レーンボーグリルとはその上の文藝春秋の本寨だもの。婦人記者よりも文壇通の、文士については赤外線的な鑑定眼を養成した錬士だったのである。
しかし、着いたトタンに当地の印象いかがとは気の早い記者がいるものだ。その暗さや侘しさがフルサトの町に似た秋田は切ないばかりで、わずかばかりの美しさも、わずかばかりの爽かさも、私の眼には映らない。
けれども私は秋田を悪く云うことができないのです。なぜなら、むかし私が好きだった一人の婦人が、ここで生れた人だったから。秋田市ではなく、横手市だ。けれども秋田県の全体が、あそこも、ここも、みんなあの人を育てた風土のようにしか思われない。すべてが私にとっては、ただ、なつかしいのも事実だから仕方がありません。汽車が横手
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