斜の限度が、どこにあるのか? フルサトの裏町に似た秋田の裏町をぶらつきながら、チョコンと傾いて並んでいる家々の傾斜の限度がひどく気にかかりましたよ。そして傾いた屋根の下に、長い一冬の雪の下に、アキラメと楽天との区別のつかないアイノコが人々の心にしみつき、育って行くのである。
 秋田の街は戦災をうけていない。恐らく終戦後三年か四年の後ならば、私の受ける感じはちがったものであったと思う。今日ではすでに東京の主要な場所はバラックながらも再建されて焼跡の汚さは見受けることができないし、大阪も、その他の多くの戦災都市も、私の見て歩いた限りでは八分通り再建作業が出来ている。
 焼跡の再建都市はバラックではないにしても、乏しい資材で間に合せたバラックまがいの街なのである。それですらも焼けない都市よりは見た目に明るく美しい。整然としてもいる。
 美しい港町と云われる長崎すらも――この港町は原爆で屋根やガラスに被害をうけたが、焼けることなく昔日の姿にかえっているのだが、むかし居留地だった洋館地帯をのぞけば、むしろ戦災をうけないための汚らしさの方が、今日に至っては目立つのである。小京都とよばれるヒダの高山も、そして秋田の街も、そうである。戦災をうけないための汚らしさ――それは異様な、しかし、うごかすべからざる事実ですよ。この異様な事実に目をうたれるとき、胸につきあげてくるのは日本庶民生活の悲しさです。
 日本の木造建築にも、ピンからキリまである。法隆寺や平等院から雪国の小作農家に至るまで。だが、庶民住宅というものは、百年前から今日に残ったものでも、ほぼ今日のバラックと変りのあるものではない。焼跡のにわか造りのバラック都市ですらも、それが新しいために、そして道路がひろげられて明るいだけでも、焼けない都市の昔ながらの汚らしさがないのである。要するに古来の日本庶民の住宅というものは、いかに資材が豊富なときでも、バラックの域をでることができなかった。たとえば昔の大工や左官が手をぬかなかったために、百年百五十年の耐久力があるにしても、それは、単に耐久力というだけで、庶民生活の豊かさを住宅自体が表しているような豪華なものはどこにもない。
 武家屋敷ですらも、中位以下のものになれば、古びて残った哀れさ汚さは、新築のバラックに劣ること万々である。
 戦争で焼けたバラック都市を見るよりも、焼かれずに残っ
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