られたことがある。このニューフェイスの教室にはおどろいたね。これを面白がってムリに一見をすすめる活動屋のキモの太さの方が天下の奇観なのかも知れない。女生徒は女優の卵なみにあたりまえの洋装だが、男の方はみんなアロハのアンチャンそのものだ。先生の講義に耳を傾けているのは一人もいない。隣り同志どころか、あッちとこッちと遠くはなれた同志で遠慮なく語らッているし、たッた十五人ぐらいの生徒のうち常に一人か二人が当り前の跫音《あしおと》で教室を出たり入ったりしているよ。女の子というものは常にあのようにハンドバッグを開けたり閉じたりする習性があるのだろうか、絶える間もなく誰かしらがハンドバッグを開けてのぞいて掻きまわしたり、ちょッと置いてみたり、実にどうも十五人の全員が鳥籠の中のメジロのようにキリもなく動いているね。
 講義中の先生は私もその名をよく心得ているその道の大家で、東京と上方《カミガタ》の芸者の作法や習慣の相違を説き明していらッしゃる。拙者がきいてると、大そう面白くて有益なお話で、映画俳優の卵には後日役に立つに相違ない話だ。けれどもビクターの犬の十五分の一も謹聴という態度を表しているのは完璧にタダの一人もいなかったね。よそのお客にこんな天下に類例マレな教室をわざわざ見物させるというのは、国家ならば国辱であるが、活動屋というものはこういうダラシのない自分の学校を喜び勇んでお客に見せる。そのコンタンのほどはとても相分らんけれども、要するに学校だの教室などというものが、撮影所全体にとって全然問題でないことだけは確かだね。ここに奇怪な存在は、それを承知で熱心に講義している先生であるが、別に厭世的な顔色でもないし、悟りをひらいた面持でもない。撮影所というものは全然ワケのわからん風が吹いてるところである。
 宝塚の学校にはこんな異様なマーケットの風は全然吹いていません。教室も生徒も他の女学校と見たところ同じようなもので、タダの女学校の教室よりも揃ってマジメに授業をうけているオモムキはハッキリしているけれども、特に血のにじむような気魄がこもっているところは全くありません。要するにヨソ見にふける生徒がいない程度の熱心さなのである。未来のスターの卵と云っても、十五六という年齢は育ち盛りという春の草木のような目ざましさが目につくばかりで、容姿はその裏に没してあまり目立たないのであろう。揃って
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