枝垂栗《しだれぐり》の自生地がある。この栗の自生地は他にシナノの某山その他二三しか見られない由であるが、この木のある所は立山から尾根を通る神様の休憩地だから、これに触れると神罰をうけて病気にかかる、と里人は怖れて伐ることがなかったから今日に残ったと里人に信ぜられている。これは尾根を往復する一行の目ジルシでもあり、或いはこの木の実は彼らが故郷たる異国から持参して通過や居住の地ごとに植えつけてきたものではなかろうか。
さて、船でヒダへ来て神武天皇に位をさずけた位山の主《ヌシ》のことを姉小路基綱の八所和歌集は一体にして顔が二ツ、手足四本、これによって両面四手と云う、という、この怪人物は日本書紀にチョッピリと記事があって、仁徳天皇六十五年の条に、
「ヒダの国に宿儺(スクナ。以後カナで書きます)という者があって、躰は一ツ、顔が二ツたがいに後向きについてる。各々の顔に各々の手足がある。力強く、早業で、左右に剣をさし、四ツの手で二ツの弓を同時に使う。皇命にしたがわず、人民をさらッて楽しみとするので、難波根子武振熊《ナニワノネコタケフルクマ》をつかわして殺させた」
とある。ただ、これだけの記事があるにすぎません。もっとも、そのほかに彼の異形のサマを説明して、顔が二ツだが、頂《イタダキ》合いて頸《ウナジ》なし、つまり二ツの顔の後頭部はピッタリとくッついて一ツになってるという意味らしい。また、膝ありて膕踵《ヨボロクボ》なし、ヨボロクボはクビスの由ですが、この文章からは様相の見当がつきません。
ヒダではこの怪人物を両面《リョウメン》スクナと云っています。書紀ではクマソか酒顛童子のような悪漢としてカンタンに殺されてますが、ヒダではこれが天の船で位山へついたという日本の主《ヌシ》で、大和の敵軍が攻めてきたとき、ひそんでいた日面《ヒオモ》の出羽の平のホラアナをでてミノの武儀郡下ノ保で戦い敗れて逃げ戻り、宮村で殺された。その死んだ地がヒダ一の宮の水無神社であるという。
スクナがひそんでいた出羽ノ平のホラアナは今もあってスクナ様のホラアナと怖れられて、そこへ誰かが登ると村に祟りがあると信じられております。私はそのホラアナ(鍾乳洞ですが)へもぐりこんできました。スクナ様の祟りかも知れませんが、ヒドイ目に会いました。残念ながらまったく半死半生でしたよ。
そこは高山から平湯、乗鞍の方へ五里ぐらい行った丹生川《ニウガワ》村の日面《ヒオモ》というところで自動車を降り、スクネ橋を渡って道の幅一尺か二尺ぐらいのキコリ径を谷ぞいに山にわけいる。歩くこと十五分か二十分ぐらい。そこからキコリ径をすてて径のない山腹をよじ登る。この悪戦苦闘、余人は知らず、拙者ならびに同行の大人物は一時間ですよ。
長い間ふりつづいた梅雨がやんだばかり。特に前日は大豪雨でヒダの谷川は出水があった。その翌日だ。両手にすがるべき木の根がみつかると安心ですが、手にさわるものは概ね朽ち木で、つかまると折れたり抜けてきたりで、確実な木の根や枝を見出すのが大変だ。足場にかけた岩まで長雨で地盤がゆるみ土もろともグラグラぬけだす危なさ。案内人が方向をまちがえなかったので助かったのですが、さもないと疲労にくたばって谷へ落ちたに相違ない。途中ロッククライミングが二ヶ所。ここだけ針ガネをたらしてありました。しかしブラブラたれてる針ガネだから握ってもすべるし、岩もぬれてすべる。手も足もかけ場に窮して、一息でも気力を失うと墜死するところでした。
こんな難路とは知りませんから、豪雨の直後という悪条件を考慮に入れる要心も怠り、特別な用意が一切ないから、服は泥だらけ。それまでの調査のメモをコクメイにつけておいたノートを四ン這いの悪戦苦闘中にポケットから落して紛失しました。しかしイノチを落さないのが拾い物さ。こッちは商売だから我慢もできるが、同行の大人物には気の毒千万で、彼は翌朝の目覚めに寝床から這い起ることができないのです。必死に手足に力をこめても、二三分間は一センチも上躰が持ちあがらないのですよ。私のことは言わぬことにしましょう。この記述の方法を日本古代史の要領と云うのです。
この難路をどうして予知しなかったかというと、里の人はスクナ様のタタリを怖れて登らぬし、里人への遠慮かそれはヒダの全部の人々にもほぼ共通して、相当の土地の物知りも登っておらず、昔の記録に日面《ヒオモ》の出羽ノ平のホラアナとあるから、谷川をさかのぼると出羽ノ平という平地があってホラアナがあるのだろうと考えている。
これが大マチガイで、谷川を一足はいってからは平地が全くなく、鍾乳洞まで登りつめても全然平地はありません。しかし、この山頂の尾根づたいの山上に平地があるらしい。正しい地図を見ると、そうらしいのです。その山上の平地が出羽ノ平かも知れません
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