社のところで死んだということになっています。
 書紀の戦記は近江に当てはめてるから、ハッキリ分りませんが、大友皇子は二十日あまり奮戦の後、粟津で負けて逃げ場がなくなり山前《ヤマザキ》に身を隠してクビをくくって自殺したという。このとき皇子側には智尊《チソン》という大将が突如現れて大奮戦していますが、橋のマンナカを切り落して戦ったという。ヒダに「中切」という地名が方々にあるのは、これと関係があるのでしょうかね。皇子の自殺は七月二十三日でした。多くの家来はみんな皇子をすてて逃げ散りました。皇子に仕えている重臣はみんな天智帝以来の高位高官で、蘇我|赤兄《あかえ》、中臣金、蘇我果安、巨勢人、紀大人、この五人が特別重臣。特に最も重臣たるのが左大臣蘇我赤兄ですが、これと同じ名が妙なところに現れています。
 諏訪神社の神氏系譜というものに、神様から代々の系図があって、武ミナカタの命の子孫がスワの大祝として今に相伝えて、当時は
 乙穎(天智の人)――赤兄
 となっており、天智のころの人の次の赤兄といえばまさに時代が合っています。なお、蘇我という地名はこのあたりにはフンダンにあったのも事実です。

          ★

 さて大友皇子を征伐した一行は二十四日ササナミに集合して、二十六日に、大友皇子の頭を持って不破宮へ戻って天武天皇にこの首をささげております。彼らが集合したササナミの地名はヒダの国府から二三里のところに実在しておりますが、細江と書くのがそれに当るそうです。
 さて、ここに問題なのは、ヒダには国造《くにのみやつこ》、つまり朝廷の任命したヒダ長官のすむ都が今の高山市内の七日町というのに当っていて、ここにはこれを無言で証明する如くに国分寺趾や惣社がある。ところが、もう一ツ昔からヒダの首府と伝えられている現在の国府があって、ここは昔は広瀬と云っていた。この広瀬というのは、恐らくヒダの古代における最も重大な名の一ツのようです。その附近は大きな古墳がタクサンあります。そして広瀬神社というのがある。また今の荒城の神というのが、当時の広瀬の神かも知れないということでもあります。
 ところがヒダの地を平定した天皇は、天武四年に、風の神を龍田の立野に祭らせ、大忌神を広瀬の河曲《カワク》に祭らしめたということが書紀に現れております。その祭った場所は大和国三郷村立野の龍田神社と大和国河合村の
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