ておいた筈だから、と安心しきって、今度の旅行にでかけた。十年前にゆっくり滞在した長崎だ。新しく見聞する必要があるのは原子バクダンの跡だけだ。私はそう考えて、長崎の古本屋で若干の本を買ったりしたが、一番平凡な探し物を忘れていたのだ。
私は家へ戻って長崎の地図を探した。島原も天草も五島も、参謀本部の五万分の一、二十万分の一、みんな揃っているが、長崎だけがないのだ。ない筈ですよ。私はようやく思いだした。長崎は要塞地帯だもの、五万分の一が手にはいらぬのは当然だったばかりでなく、通俗な市街図すら、当時は手に入れることができなかった。私は長崎の人に手製の地図を書いてもらって、それをタヨリに歩いていたが、諏訪神社のベンチに腰を下して長崎港を眼下に眺めつつその手製の地図を見ているときに憲兵につかまって訊問されたことがあった。そのことは覚えていたが、時勢の変った悲しさに、それが手製の地図だったのをすっかり忘れていたのであった。
あのときは驚きましたよ。何事に驚いたかというと、その時まで海軍の憲兵というものを知らなかったから、セーラー服にツバのない水兵帽をかぶって、古風なキャハンをはいた坊やのふくらんだようなのが私を訊問にきたので、おどろいた。彼は私を自分の詰所へ連行した。詰所といってもボックスがあるわけではない。公園の中の自然の立木のようなのに電話器がつけてあって、それ以外には特別なものは何もない。私が調べられている時にも電話がかかってきた。それから判断すると、いたるところの山の上や中腹などにこういうカンタンな詰所だか見張所のようなものがあって、そこから対岸や左右の山中や市街を望遠鏡で見張りあって、お前のところの公園のベンチに変な奴が膝の上の紙と港を見くらべている、取調べよ、というように注意し合っているもののようだ。私の挙動に不審をいだいたのは、ここの詰所の彼ではなくて、どこか遠方の山中から望遠鏡で見張っていた誰かであったようである。
地図禁制の地域で手製の地図を見ていた私は、当然相当な取調べをうけるだろうと覚悟をきめたが、彼は私の旅行目的をきいた上で、私の所持の包みを調べ、それが図書館で古い史料を筆写したノートであることを確かめると、ただちに釈放してくれた。私が今日に於ても日本の海軍には陸軍にない親しみを感じているのも、このセーラー服の憲兵が物分りがよくて人を頭から罪人視するような振舞いのなかったことに好感をもったのが理由の一ツであるかも知れない。
私はこの憲兵の取調べをうけたのをよく記憶しており、それが地図を見ていたせいであることもよく記憶しておりながら、それが手製の地図であったことを忘れていたために、今に至るまで私の書庫には一枚の長崎地図もないことに気づかなかったのである。
そのときの長崎旅行は島原天草の一揆の史料をあつめ、実地を見て歩くためであったが、空想癖の旺盛な私であるから、全然ムダなことに精を入れるのは、今も昔も変りがない。実に私が切支丹史の人物中で最大の興味をもっていたのは「金鍔次兵衛」という怪人物で、私が十年前の長崎旅行の後にまず第一に書いたのは彼の行蹟についてであった。
古来から切支丹|伴天連《バテレン》の妖術という。伴天連はパードレ、神父の意。新教の牧師に当る。彼らは布教の始めに当って、客寄せというような意味で手品などもやったようだ。新教では奇蹟を説かないが、旧教では神の奇蹟を認めるから、その方便に手品を用いるようなこともあったらしい。それでバテレンの妖術ということは、はじめから言われていたもののようであり、また、当時の日本の習慣にはない獣肉を食用し葡萄酒をのむから、人間の子供の生き血をのんでる等という噂もあった。そして物語の本には切支丹バテレン妖術使いウルガン伴天連。身の丈一丈二尺などゝ多くの怪人物が現れているけれども、そして、それが実在のバテレンの名に相違ないが、いずれもバテレンが酒顛童子のように人肉を食うというような架空な物語にすぎない。
正しい史実に「切支丹バテレン妖術使い」という名と行蹟をハッキリと残している人物はたった一人しか居ないのである。この人物を「金鍔次兵衛」という。その珍妙な名は物語の中の架空の人物のようであるが、却々《なかなか》もって、そうではない。外国側の記録にも、大村藩の記録にも破天荒の彼の行蹟がハッキリ記されており、のみならず彼が捕縛されたところには「金鍔谷」という地名が残り、長崎の地図が手もとにないから、正しい町名なのか、昔からの通称にすぎないのかは分らないが、長崎港外の戸町へ行って「金鍔」ときけば直ちに通じる通り、彼の足跡は今も明確にその所在を残しているのである。そこの山腹に現存する横穴の中で、彼は捕えられたのである。
地下へもぐった共産党の幹部にくらべると、金鍔次兵衛の方が
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