、あるいは営業を休んでいるかも知れんが、この紹介状があれば休業中でも泊めてくれますよ。マドロス宿屋の壁や寝台にしみ残った流浪者たちの無頼ながらも悟りきった謎のような独り言でも嗅ぎだしてらっしゃい。壁際によせてある毀れたイスだのヒキダシの中の誰かが捨てて行ったパイプなどが急に何か話しかけてきかせてくれることが有るかも知れないものですよ、というような話であった。
まさしく休業状態で、七十ぐらいの脚の悪いラテンともユダヤともつかないような小柄な老人が、たった一人下宿しているだけであった。私の案内されたのは、幅が二間半ぐらいに、奥の深さが五間ぐらいもあるような実に殺風景な部屋さ。途方もなく大きなダブルベッドがあって、西洋の中学生の勉強用に適当のような机があった。そして、たしかに、使用にたえないイスが一つ壁際によせてあったね。
部屋へ案内してくれたホテルの娘さんが、陶器の大きな水差しに水をいれて持ってきて、鏡の載っかってる台の上においてあった陶器の大きなカナダライのようなものの中へ、水差しの水をジャーボコボコと半分ぐらいつぎこんで立ち去った。
巴里《パリ》の屋根裏の映画かなんかに、たしかに何回も見た覚えがありますよ。人を殺した男かなんかが、血だらけのナイフをこの台の上へおいて、水差しの水をジャーボコボコとこの陶器のカナダライ的なものへ半分ぐらいついで、血だらけの手をさしこむ。水がサッと血で黒くなるというような、そんな映画がよくあるでしょうが。ウーム。なるほど、マドロス宿か。長崎的々はこれであるな、と大感服致したものさ。
このホテルは、もう、なくなっていたようでしたね。ここの主人は、たしか伊野(?)さんとか仰有ったかな。親切な人で、郷土の地理歴史につまびらかに、私の調査旅行に有益な教示や助言を与えてくれた。こういう長崎的々な、否、全然日本ばなれのした外地の安宿そのまま的の存在がいつまでもこの町にあるということは、物好きな旅行客には有難いことなんだが、復活しませんかね。
長崎の市街は意外にもエキゾチックなところが少くて、一番異国的なのは、大浦天主堂の裏手の丘の居留地、緑につつまれた古風な洋館地帯だけでしょうかね。オランダ坂というのは、たぶんここへの登り道を云うのだろう。イーグルホテルに泊っていた時は、近いせいもあって、時々そこを散歩しました。
長崎は殆ど火事がなかった
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