つげなかったのは当然でしたろう。
日本の地上に住んではいても彼らの天は日本の天ではないのだという異教徒の白眼視が百倍も強く彼らの身に感受されていたはずでした。私はその悲しさを浦上の人家や山河や樹木や畑の物にまで感じたのだもの。人の白眼視を百倍も強く感じているということは、それが彼らの意志や本心ではなくとも、彼らが自然に日本の空よりも、よその空の中に、自分の空を見るような現実が生れるに至るだろうということを、私がいつからか確信するようになっていたとしてもフシギではありますまい。人が疑るように、自分が似てくるね。人は弱く悲しいものですよ。
彼らが自分の空だと思ってみたりしたこともある空の中から飛んできた飛行機が、彼らの天主堂の上で原子バクダンを落した。私が最初の一瞬に考えたのは、そういうことでした。それは私の思い違い、思い過しであるかも知れませんが、しかし、私が最初の一瞬にハッと思ったことは、とにかく、そういうことだったのです。そして、その原子バクダンが私の頭上にも落ちたのか、否、その原子バクダンを落した奴が私自身だったのか、何がなんだかワケが分らないような、奇妙キテレツな気持でしたよ。
私はどうしてだか、大浦の天主堂のあの日本人の神父さんを今でもアリアリと覚えていますよ。身長も高いが、ふとってもいましたね。黒い僧服をきて、僧院の階段を走り降りて現れてきましたね。そのときだけは元気で無邪気でしたのに。大浦の天主堂は原子バクダンの被害をそう蒙らず、今は改装の手入れ中でしたが、彼が今もこの僧院にいるなら、否、どこの僧院で、どこの路上で彼に再会しても、私はただちに彼を確認できます。長い顔でしたが頬の肉が豊かで、たるんでいるような坊やじみた顔で、たしか鉄ブチの眼鏡をかけていたと思います。
私は今回、長崎へ行き、浦上の原子バクダンのバクハツ中心地から、浦上の天主堂の廃墟へと登りました。天主堂の丘は庄屋の屋敷跡だそうですね。この庄屋は浦上切支丹の召捕や吟味には先に立って手伝い、踏絵をやらせ、流罪を申渡したりしたのもこの丘の上の庄屋の屋敷でやったことだそうですね。
浦上切支丹はその悲しみの丘を買いとって天主堂をたて、彼らの聖地としたのでしたが、それがさらに天地の終りとも見まごうような悲しみの丘に還ろうとは。
爆心地の記念館には、昭和二十四年度訂正として、
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